第二話 『夜無き都』


 ――愛している。
 唐突な――けれどもハルシアがずっと待ち焦がれていた、それは恋の囁(ささや)きだった。
 あまりにも飾り気というものを欠いた、短い一言。それでも寡黙(かもく)で朴訥(ぼくとつ)なシャザムにしてみれば、勇気を振り絞っての告白であったに違いない。
 二年前。ハルシアは一四回目の生まれ月を迎えたばかり。
 空の月が満ちた、秋の宴の宵。村の外れにある岩陰でのことだった。
 抱きすくめられ、少しばかりぎこちなく唇を重ねられた。
 その腕の力強さから、自分を見据える真摯(しんし)なまなざしから、千の言葉よりも確かにシャザムの想いを感じることができる。ともに二親を亡くして以来、剣の老師のもとで兄妹以上の絆をつちかってきた二人だったから。
 背の高いシャザムの胸に背伸びをして顔を埋め、ハルシアは至福の息とともに呟いた。
 ――……わたしも、だよ。
 その夜のうちに、二人は結ばれた。
 不自然なこととも、淫らなこととも思わなかった。互いにずっと胸の中に温めてきた想いを解き放っただけの、ただそれだけのこと。
 シャザムの肌の温もりに身をゆだねながら、ハルシアは思った。
 この砂の集落で、これから彼とともに至福の時を刻んでゆくのだと。
 想い人に華奢な身体を貪られながら、ハルシアは思った。
 朽ち果てるまで、彼とともに時を過ごしてゆくのだと。
 そう。
 わずか一年後に、二人の上に降りかかる運命の暗雲。
 この夜の彼らには、まだそれを知る由もなかった。


 夜の来ない都。バフシャールは、そんなふたつ名をもって知られている。
 奇妙なこの通称に怪訝さをおぼえる者でも、ひとたび都に足を踏みいれれば驚きとともに得心することだろう。
 陽が沈めば、街路のいたるとこに設けられた松明(たいまつ)の台に灯がともり、街全体が淡い橙の光の中に浮かびあがる。都の中枢をなす市場も、その周りを取り囲むように築かれた歓楽街も、夜を通して人足がとだえることはない。
 そして、バフシャールのもうひとつの特徴は、三本の商業街道が交差する位置にあるがゆえの、路地を行き交う人々の雑多さだ。
 ターバンを頭に巻いた西方の商人。
 東よりはるばる旅をしてきたと思しき、眼光鋭い武人。
 鮮やかな衣に身を包んだ、異国の舞姫たち。
そんな数多の人々が行き交う通りは、あたかも五色の華が流れるという桃源郷(とうげんきょう)の川のようだ。
 ゆえに。
 多少周囲との様相を違えた、砂漠の民の二人連れ――まだ年若い青年と少女がその中を歩んでいたとて、誰一人として注意を払うものはなかった。
 街を行く人々は、まだ知らない。
 数日ののちに彼らがこの都にもたらす、ささやかな騒動を。
 まして、人々は知らない。
 彼らがこのバフシャールを訪れた目的が、都でも三本の指に入る商人の暗殺にあることを。

 
「わあ……」
 ハルシアの唇から、微かな感嘆の声がもれた。
 通りを満たす人。通りを満たす明かり。生まれてから十六年を砂の部落の中で過ごしたハルシアにとって、むろん都は初めて訪れる場所だ。
 彼女に限らず部族の者たちは、たいがいその一生を小さな村の中で過ごす。泉があり、乳を出す家畜がおり、わずかながらだが作物も収穫できる――自給自足の成り立つ部落を離れ、渇きの砂漠を越えて旅をしようなどとは誰も思わない。
 砂とともに生き、砂の中に朽ちる。それが、砂の部族に生を受けた者のならわしだ。険しい風塵に逆らって都に外の世界に出ようとする者は、これまで皆無に等しかった。
 そう。ただひとりの例外を除いては。
 ――兄さまも……この道を歩いたのかな。
 歩調を緩め、ハルシアはふとそんなことを考える。
 灯火に照らされた楚々(そそ)たる顔に、かすかな憂いの陰が落ちた。


「これからは、こんなみずぼらしい村の中で安寧(あんねい)としていたのでは駄目だ。外の世界に出て都と交易を拓いていかねば、砂の部族に未来はない」
 それが兄、キルギスの口癖だった。
 知的な、けれどもどこか険のある顔立ち。痩せた身体。砂の部族の男としては風変わりな容貌を持った彼は、その考え方においても他の者たちと一線を画していた。街道をゆく旅人たちの中継点として村を開放し、交易を通じて発展させることを唱えたのだ。
 むろんのこと、かような考えが一朝一夕に受け入れられようはずもない。
 交易など拓かずとも、日々の糧を得ることはできる。どうしてそれ以上の富を望むことがあろうか。それが、おおかたの者の考えだったからだ。
 自らを敬遠する部族の長老たちを、キルギスは軽蔑のまなざしをもって見ていた。
「失望したよ。頭の中まで砂に冒されたような老人たちに、これ以上論を説いても無駄なことさ」
 痩せた顔に嘲笑を浮かべ、彼はハルシアに言ったものだった。
「だが俺は、こんな砂の中に自分の一生を埋もれさせるつもりは毛頭ない。見ていろ」
 誰の賛同も得られぬままキルギスは自ら都に赴き、商人たちと接触を始めた。
 街道からそう遠くない場所に位置し、涸れることないオアシスを持つ部落は、確かに都の人々にとっては食指の動く存在だったのだろう。
 キルギスは都へ出向くたびに、商人たちより譲り受けた異国の品を携えて帰ってきた。
 絹で織り上げた、美しく滑らかなショール。色のついた水晶が、幾重にも連なる首飾り。玻璃(はり)の器。
 彼にしてみればそれらの品々で村の者たちの興味をひき、己の賛同者をつくる目論見があったのかもしれない。
 だが――
 ハルシアには判っていた。キルギスがいかに奔走(ほんそう)しようとも、いかなる異国の宝を持ち帰ろうとも、部族の者たちの心を動かすことはできはしないと。
 富を求めようとはしない村人たちの考えを、兄は理解できない。富を求めんとする兄の考えを、村人たちは理解できない。それは、決して交わることのない二本の糸なのだ。
 哀しかった。そして不安だった。
 己なりのやり方で部族の未来を案じながらも、熱意を傾ければ傾けるほどに孤立してゆく兄。
 ――流行り病で両親を亡くしてからはたったひとりの肉親であった兄が、自分の手の届かぬところに遠ざかっていってしまうような気がして。
 キルギスを思いとどまらせようと、いくたび説得を試みたことだろう。
 だが――
「お前までもが、あいつらと同じことを言うのか!!」
 見る影もないほど落ち窪んだ双眸(そうぼう)で睨まれ、そう叫ばれると、もはや何の言葉を継ぐことも叶わなかった。
 実の妹にさえ疑心の砦を構えたキルギスだ。恋人の憂いを案じ力を尽くそうとしたシャザムにも、こればかりはどうすることもできない。
 時間だけが、季節だけがただいたずらに巡り、そして――
 ハルシアの胸に広がった不安の暗雲は、最悪の形で現実となった。


 ……かような過去があるがゆえに、ハルシアにとってこれまで商都バフシャールは恐れと忌避(きひ)の対象でしかなかった。
 兄の心を、兄の人生を呑み込んだ禍々(まがまが)しき土地。
 いまでもその感情に変わりはない。だがこうして華やかな雑踏の中に身を置いてみると、この都に曳かれた兄の心も、少しばかり理解できるような気がした。
 と――ふと我に返ってみると、前を歩むシャザムの背中が雑踏の中にあやうく消えそうになっている。
「あ――」
 先に宿をとってあるゆえ、見失ったきり二度と会えないような事にはなるまいが、それでもこの雑踏の中ではぐれては一大事だ。
 慌ててあとを追う。途中二回ほど道行く人に肩をぶつけ、「すみませんっ」と小声で謝った。
『剣をとっての身のこなしは、男にもかなうものはそうおるまい。だが何ゆえ普段の動きがその……鈍いのかのう』
 剣を教えてくれた部族の老師匠に、たびたびそう言われたハルシアだ。
「……ね、シャザム」
 ようやくシャザムに追いつき、その背中に声をかけた。
 彼は応えず、ただ早い歩調で歩みを続ける。
「すごい人だね……シャザム。それに松明も……村の宴が何百も集まったみたい」
「――ハルシア」
 ようやく短い言葉――咎めるような声が返ってきた。
「……え?」
「あまり浮かれるな。遊びにきたわけじゃないぞ」
「あ……う、うん」
 ハルシアはちいさく首をすくめた。
 もとよりシャザムは無愛想で、不機嫌でなくとも不機嫌に見える。だが今は、本当に機嫌があまり良くないのだ。その理由も、ハルシアにはよくわかっていた。
「ね、シャザム」
 いま一度先程と同じように、ハルシアは恋人の背中に声をかける。
「……もしかして、怒ってる? わたしが、盗賊のひとに傷薬をあげちゃったの」
 シャザムの足が、ほんの一瞬だけ歩みを止めた。
「――薬は貴重だ。襲ってきた盗賊にくれてやるなど、人が好すぎる」
 返された無愛想な答えに、ハルシアは苦笑してちいさく息をつく。
 やはりそうだ。シャザムの不機嫌の原因は、盗賊団の生き残りに渡した膏薬(こうやく)にあったのだ。
 それも、彼が怒っているのは決して『薬が貴重だから』ではない。
 幼いころからシャザムは、ハルシアが彼以外の誰かに優しさを向けるとたやすく気を悪くする。恋人の契りを結んでからも、それはまったく変わらない。
 言ってしまえば、軽い嫉妬というものなのだが――
 シャザム――一見すると冷静で無感情なこの青年の中に、実はそうした甘え盛りの幼子のような一面が潜んでいるのを、ハルシアは知っている。少々困ってしまうこともあるが、彼のそういう部分も決して嫌いではなかった。
 ハルシアはシャザムの横に並び、彼の顔を見上げて微笑む。
「……ごめんね」
「――もう、いい」
 あいも変わらず無愛想に言うと、シャザムはハルシアの髪にぽん、とてのひらを置いた。その手のひらの感覚だけで、ハルシアは彼の機嫌が直ったのをうかがうことができる。
「えへへ」
 自分の想い人の、複雑なようで単純な一面が何となく可笑しくなって、ハルシアははにかんだ。
 ――と、その瞬間だ。
 シャザムの手がぴくっと一瞬こわばり、ハルシアの頭を離れる。
「――?」
 怪訝に思うだけの暇はさほどなかった。シャザムは無表情な――けれどもどこか張りつめた色を顔に浮かべ、ハルシアの手を強く握り締めた。そのまま腕を引いて、人にあふれた大通りを横切り始める。
「わ、シャザム、どうし――わ、わ。すみませんすみませんすみませんっ」
 道行く人に次々とぶつかりそのたびに謝りながら、ハルシアは通りの端まで引っ張られた。
 わけがわからない。無口で無表情ゆえいつも行動が唐突に見えるシャザムだが、これはいくらなんでも突拍子がなさすぎる。
「シャザム――わ、わわわ」
 ハルシアの混乱は頂点に達した。シャザムがハルシアの身体を抱きすくめるようにして、顔を近づけてきたからだ。
 ここは夜無き都バフシャール。歓楽の酒に酔いしれて路上で口づけを交わす恋人たちも、別に珍しい光景ではない。
 だが、しかし、これは――
 ハルシアの頬は一瞬にして真っ赤に火照った。心音が、荒馬の足音のように早まるのが自分でも判る。
「しゃ、シャザム、ひとがいる、たくさんひとがいるよぉっ」
「――馬鹿。勘違いするんじゃない」
 腕の中でじたばたともがくハルシアの耳元に、シャザムは鋭い声で囁いた。
「――……えっ?」
「いいか――いま歩いていた通りの先を見るんだ。赤い服の男が歩いてくる」
「――――」
 言われたまま、彼女はシャザムの肩越しに視線を巡らす。
 大通りの先――肩も触れ合わんばかりの人ごみが、そこだけはっきりと判るほどに割れていた。そしてその生じた真空の中を、五人の人影がゆっくりと歩んでゆくのが見える。
 四人は護衛だろう。屈強な、大振りの剣を腰に差した男たちだ。
 剣士たちたちに囲まれるようにして、派手な紅い服を身にまとった壮年の男がひとり。
 肉塊が歩いているのかと見まがうほどに肥え太った男だった。禿げあがった頭。顔は大きいが、目鼻はふつりあいなくらい小さい。せわしなく動く瞳と、唇に浮かんだ酷薄な笑いは、尊大さと臆病さを同時に表しているように思われた。
 道行く人々が避けて通るのは、護衛の者たちの発する威圧感がゆえか。それとも、あの紅衣の男の知名度によるものか――。
「見えるか、ハルシア? あれが交易商人ムルドゥ=ハキム――」
 シャザムが、短く囁いた。
「俺たちが討つべき――キルギスの仇だ」




To be continued……