第三話 『月の惑(まど)い』


 とうとうここまで来てしまったな。
 心の中で、『彼』はそう呟いた。
 もう、後戻りはできない。
 ひとたび偽(いつわ)りに手を染めたならば、終わりをも偽りの手にゆだねるほかはないのだ。
 そう。
 もう、後戻りは、できない。



 運命の皮肉というべきであろう。
 キルギスの亡骸(なきがら)を見つけ集落に持ちかえったのは、北方の岩地にひとり遠乗りに出ていたシャザムにほかならなかった。
 ハルシアは今でも、一年前のその日のことを鮮明に憶えている。シャザムが短い、しかし沈痛な声で兄の死を告げたときのことを。
 村外れの空き家に安置されたキルギスの亡骸の前まで、ハルシアはシャザムに肩を抱かれ、支えられるように歩いていった。
 夢か幻の中にいるようだった。死などというものにはとうていそぐわない、窓からさしこむ陽の光。台の上にかけられた白い布。その布の下に、つい数日前まで歩き、食し、言葉を交わしていた兄の屍(しかばね)が横たわっているという事実。
「――見ないほうがいい」
 ひときわ強くハルシアの肩を抱き、シャザムはそう呟いた。
 刀で斬られ、そのあとに岩場から転落したらしい。キルギスの遺体は、実の妹で――それもまだ少女に過ぎないハルシアが見るには酷(こく)な状態だったという。
 葬いの営まれている間も、ハルシアは泣かなかった。
 危惧した通りに運命の淵に呑み込まれ、危惧した通りに死を遂げた兄。たったひとりの肉親という最も近い場所にいながら、その流れに一石を投じることすらできなかった自分。
 心の深い部分が、麻痺してしまっていた。元来涙が流れるべきところを、乾いた風がひゅうひゅうと吹き抜けているかのような。
 埋葬が終わり、十日ほどの日々が過ぎ――そして。
 久方ぶりにシャザムと二人きりになって彼の腕に抱かれたとき、初めてハルシアは泣いた。
 それが兄の死を悼(いた)んでの涙なのか、自分でもわからない。ただ、瞳から涙が溢(あふ)れて止まらなかった。
 母の胸にたどり着いた迷い児のように、彼女は泣いて泣いて泣きじゃくった。

 
「……仇を討たなければ、いけないな」
 キルギスの死から半年が過ぎ、悲しみの陰りがすこしづつ薄れ始めた頃。
 村外れでの逢瀬(おうせ)の後で、シャザムは思い出したようにそう呟いた。
「……うん」
 恋人の言葉に、ハルシアは頷(うなず)く。だが、声と表情が憂いに曇るのを自分でも押さえることができなかった。
 兄の死は確かに悲しい。錆(さ)びた刃で身を抉(えぐ)られるような鈍痛が、いまだ心の奥に残っている。
 しかし兄を手にかけた者への憎しみというものは、何故か胸の中に涌いてこないのだ。まして、仇などを討ったところで兄が戻ってくるわけではない。
「どうしても……やらなくちゃ、だめなのかな」
 弱々しいハルシアの問いに、シャザムは応えなかった。ただ無言のまま、いたわるように彼女の肩を抱いただけだった。
 そう。砂の部族の民は、何よりも血縁を重んじる。たとえ村の輪をはみ出していたキルギスであれ、殺められたならばその仇は唯一の肉親であるハルシアによって討たれねばならない。
 兄を殺した者を探し出し、剣もて打ち斃(たお)し、血をその墓前に注ぐまでは、婚礼をあげることを部族の不文律(ふぶんりつ)が許さないだろう。
「……そう、だよね」
 ハルシアは口元に微笑(ほほえみ)を浮かべてみせた。
 視線をあげ、シャザムの顔を見つめる。
 あいも変わらず寡黙(かもく)で無表情――けれどもその瞳の奥に宿る優しさを、わたしは、わたしだけは確かに知っている。寄り添っているだけで胸に温かな想いが満ちる、最愛のひと。
 仇討ちは何をも生み出しはしない。自分が刃で人の命を奪うなど、脳裏に思い描いただけでも背筋が寒くなる。
 でも――
 このひとが、シャザムが側にいてくれるならば。
「ごめんね、シャザム……変なこと言っちゃって」
「――ハルシア」
 シャザムと晴れて、祝福される婚礼をあげるためならば。
「わたし……兄さまの仇を討つね」


 それから数ヶ月の間、シャザムは駿馬(しゅんば)を駆り、ハルシアを残して村を留守にした。都やその周辺のキャラバンを回り、キルギスと取引きを行っていた商人をつきとめるためだ。
 キルギスの亡骸が見つかった岩地は、盗賊たちの出没するような場所ではなかった。勇猛果敢で知られる砂の部族の集落から程近く、盗賊たちとてそのような地域で命がけの略奪を働こうなどとはゆめゆめ考えない。
 さすればキルギスはやはり、取引きを行っていた相手との間に揉(も)め事を起こし――あるいは裏切りにあって命を落としたに相違なかった。
 その相手の名を探るための探索行。ハルシアはが同行を望んだのは無論のことだ。
 だがシャザムは、にべもなくその願いを拒絶した。
「二人では動きが取りにくくなる――俺はすぐに戻る、村で待っているんだ」
 つまりは、足手まといになるということだった。
 すげないといえば、あまりにもすげない言葉。しかしその裏には、キルギスの足跡をたどることによって再びハルシアが哀しみの頚木(くびき)に囚(とら)われることを憂いる、シャザムの心遣いがあることは間違いなかった。
 それゆえに。
 ハルシアは待った。
 彼を信じるがゆえ、彼の帰還を信じるがゆえにひとり村に残り、来るべき仇討ちの日に備えて剣の鍛錬(たんれん)に明け暮れた。
 鍛錬――とはいえ、舞をその基調に置くハルシアの剣はこのときすでに、部族の男たちにすら比肩(ひけん)する者がいないほどに研(と)ぎ澄まされている。
 だがそれでも、彼女は日々の稽古を欠かさなかった。
 自分のためシャザムが砂塵の狭間を旅しているというのに、無為に日を送っていたのでは申し訳が立たない。そう思ったのがひとつ。
 そしてもうひとつの理由は、何かに心を傾けていなければ仇討ちへの不安と重圧に押しつぶされてしまいそうだったからだ。
 長い、果てしなく長い日々が過ぎた。
 月が欠け、また月が満ち――
 三度目の満月の夜が明けた朝に、シャザムはハルシアのもとに戻ってきた。キルギスと取引きを行っていた商人――討ち果たすべき敵の名を携(たずさ)えて。
 バフシャールの交易商人、ムルドゥ=ハキム。
 二人が婚礼をあげるために剣もて斃(たお)さねばならぬ、それが男の名だった。
 
 
 ――そのムルドゥの館がいま、すぐ目の前――通りの向こう側に聳(そび)えている。
 白い石で造られた外壁と、夜空に向かって槍のごとくに突き出た尖塔(せんとう)。月光に浮かびあがる巨大なその姿は、さながら幻の国に建つ城のようだ。
「……おおきいね」
 ハルシアは思わず、率直な感想を洩(も)らした。
「まるで――山みたい」
 斃すべき敵の住まう館を前に、あまりにも緊張というものに欠けた呟きだったかもしれない。だが側(かたわら)のシャザムは特に咎(とが)めることもなく、
「――ああ」
 と頷いたのみだった。
 市場通りで紅衣の商人たちの姿を見受けてより、尾行を続けて半刻ほど。人通りも途絶えた都の外れにムルドゥ=ハキムの館はあった。
 たった今商人と護衛たちが消えていった正面の門を、二人はじっと見つめる。
「……いけそうだな」
 シャザムの口から、短い独言(ひとりごと)が紡がれた。
「え?」
 思わず訊ねたハルシアに彼は、館の中央に聳える尖塔を指し示してみせる。
「門の中にもおそらく、護衛が各所に置かれているだろう。正面から二人で押し入ったら勝ち目はない……が、あの塔の窓――あの場所から忍び込むことができれば……」
「――――」
「俺は今まで、奴が館の外に出たときに仕掛けるつもりだったんだ。だが、館の中で護衛を固めて油断しているときこそが、逆に好機なのかもしれないな」
「……う、うんっ」
 ぎゅっと身を固めて、ハルシアは頷(うなず)いた。
「どうした、ハルシア?」
 『緊迫』という題材で彫り上げられた石像のようになっている彼女を横目で見て、今度はシャザムのほうがが問い掛けてくる。
「え……だってシャザム、好機だって言ったから――」
「――馬鹿」
 掌(てのひら)で、ぽんと頭を叩かれた。
「仕掛けるのは今じゃない。館の中がどうなっているのかを知って、時期を見たうえでだ」
「……ごめん」
 しゅんとなって、ハルシアはちいさな声で謝った。どうもこの都に着いてからというもの、シャザムに叱られることが多くなった気がする。
「ここの場所は憶(おぼ)えたな、ハルシア」
「え?……う、うん。たぶん……憶えたと、思う」
「――ハルシア」
「……え?」
「俺たちが宿をとった通りはどっちだ。指差せるか?」
「ええと……こっち…?」
 頼りなげにハルシアが指差した方向を見て、シャザムの顔に珍しく表情が――すこしばかり困ったような色が浮かんだ。彼はそっとハルシアの腕を握ると、指差す先を反対の方に向ける。
「こっちだ」
「――……あれ?」
「いいか、ハルシア」
 ハルシアの両方の肩に手を置いて、シャザムは一語一語を子供に説き含めるような口調で言った。
「宿に帰ったら、俺が簡単な地図を描く。だが、俺のいないときに間違っても宿を遠く離れるな。いいか?」
「……うん……ごめん」
 頬を真っ赤に染め、消え入りそうな声でハルシアは応えた。
 砂漠でならば、目をつぶっていても風を頼りに方向を知ることができる。だが、初めて入った都はまったく未知の世界だ。恥ずかしくなるくらい勝手がわからない。
「まあ、いい」
 シャザムが口元に微かな笑み――おそらくハルシア以外の誰にも向けられたことのない、優しい微笑を浮かべて口を開いた。
「ひとまず、今は行くぞ。見咎(とが)められたら面倒になる」
「――うん」
 シャザムの横に並んで、ハルシアは歩き出す。
 ――彼女は、気づこうはずもなかった。
 この時――否、この場に着いた時から自分たちに向けられていた、邪悪な視線の存在になど――



 二人が歩み去ってから、その男はゆっくりとした足取りで石壁の陰(かげ)から歩み出でた。
 年齢は四十過ぎといったところであろうか。背は低く肩幅も狭い、貧相な小男だ。やつれた左頬には傷痕(きずあと)が走り、右の目には黒い眼帯をあてている。
 残った左目は、先程青年と少女が消えていった路地の先をじっと見据えたままだ。蛇を想わせる細い瞳の奥に燃えるのは、昏い憎悪の焔(ほのお)
 だが――
 にもかかわらず、その顔が形作る表情は笑み――狂おしいほどの歓喜の笑いだった。
「く……」
 口元に手をあてて、彼はくぐもった声を洩(も)らした。
「く……はははっ……はははははははははっ!!」
 ここが街路であるならば、道行く人は心の中で男に狂人の烙印(らくいん)を押したであろう。そういった種類の笑い声だ。だがここは郊外にある館の側。不夜の都とはいえ、このような時間にこのような場所を通りがかるなどおりはしない。
「運命ってぇのはおかしなもんだぜ。まさか――まさかこんなところで出会えるたあなぁ。くはは……はははははっ」
 発作じみた哄笑をひとしきりあげると男は、
「はははっ……おい――ハッサン!」
 愉快そうに指を鳴らし、背後に呼びかけた。
「――お呼びで……ございますか、イルヴァン様?」
 陰気な声とともに闇の帳(とばり)をくぐって現れたのは、眼帯の男よりもさらに背の低い――傴僂(せむし)と言い表すべき男だ。
「――あの二人を尾けろ」
「……承知いたしました」
 とろんと濁(にご)った目で主人を見て深々と一礼すると、ハッサンと呼ばれた男は思いのほか俊敏(しゅんびん)な動きで駆け出した。かすかな足音すらもたてずに。
 闇の中に溶け消える部下の姿を目に、眼帯の男――イルヴァンは満悦(まんえつ)の笑みを浮かべると、ムルドゥ=ハキムの館の中に入ってゆく。
 ほどなくして、辺りを夜の静寂(しじま)が支配した。
 外の砂漠と異なり、空に星はさほど見えない。街中央部の明かりが星の光を打ち消すためだ。
 中天に懸かる紅い月だけがただ、静かに下界を見下ろしていた。
 そう――あたかも、煉獄(れんごく)を眺めやる無慈悲な看守のように。



「――ふぅ」
 寝台の端に腰を下ろし、ハルシアは安堵(あんど)の息をついた。
 考えてもみれば宵(よい)の口にこの都に着いてすぐ宿をとり、街路の様子を見るために通りを歩き、そこでムルドゥの一行を見かけて尾行についたのだ。くたびれていないほうが不思議というものだった。
 一階が酒場と食堂を兼ねた、狭いががそこそこに落ちつける宿屋。ハルシアとシャザムが案内されたのは、二階のいちばん奥に位置する小さな部屋だ。
 中にあるものといえば古めかしい木の机と、色あせた布が張られたやや大きめの寝台がひとつ――
 そう、寝台はひとつだけだ。
 ――そうだよね……やっぱり。
 この部屋に二人を案内するときに宿の主人がみせたにやにやした笑みを思い出して、ハルシアはいまさらながらに頬が熱くなった。
 ふうううううぅぅぅ。
 心の中に膨れ上がった恥ずかしさを吐き出すように、下を向いてひとつ大きな息をついてみる。
 ――顔をあげると、シャザムが寝台の前に立って彼女を見下ろしていた。「何をしているんだ?」とでも訊(たず)ねたげな表情を浮かべて。
「あ……ええと――どうしたの? シャザム」
 ハルシアはとりつくろうように、慌てて口を開いた。
 照明は寝台枕元の台に据えられた蝋燭(ろうそく)のみ――部屋は淡い橙色の薄闇に覆われており、染まった頬を見られないですんだのがせめてもの幸いだ。
「……疲れたか?」
 彼はそう訊ねながら、ハルシアの横に腰をおろした。きぃ――と、寝台の脚が弱々しい軋(きし)みをあげる。
「うん……すこぅしだけ。でも、大丈夫だよ。シャザムのほうこそ」
「旅の疲れが残っていないと言えば嘘になるな。二、三日は休息に充てよう。館の位置がわかっている以上、ことを起こすのはそれからでも遅くはない」
 言って彼はハルシアの髪に掌(てのひら)を置き、そっと優しく撫(な)で下ろした。
「――うん」
 微笑んで頷(うなず)くと、ハルシアはシャザムのほうに顔を向ける。
 燭台の明かりに淡く照らされた、精悍(せいかん)な彼の顔がすぐ目の前にあった。澄んだその瞳の中に、炎がちらりと揺れた。
 ハルシアの胸の奥底で、とくん――と鼓動が跳ねあがる。その刹那、シャザムの腕がゆっくりとハルシアの華奢(きゃしゃ)な身体を抱き寄せた。
 ハルシアも、シャザムの背中に腕を回した。寝台に腰をおろしたまま、ちょうど彼の左肩の辺りに顔を埋める恰好になる。
 広く厚い、シャザムの胸。ハルシアが腕を伸ばしても、その腕の中に抱くことはできない。たゆまぬ修練によって造られた彼の身体は、岩のように硬く引き締まって――なのになぜか、優しく、温かい。
 シャザムとの、二人きりの旅。これが、仇討ちの旅でさえなければいいのに。
 不謹慎なことと思いつつ、ハルシアは心の中で呟いてしまう。部族の掟も何もかも捨てて、このままどこかに逃げてしまいたい。刹那ではあれそんな願いが胸をよぎることも、この旅路のさなかに幾度かあった。
「――ね、シャザム……」
 顔を埋めたまま、ハルシアは口を開いた。
「どうした?」
「あの……さっきの紅い衣のひと――あのひとが、兄さまを直接手にかけたわけじゃ……ないんだよね」
「――だが、彼をああいう運命に引き込んだのはあの男だ」
 弱々しく呟くハルシアを力づけるように、シャザムは言う。
「うん……でも、それにね。わたし……」
 ハルシアは言葉を続けた。心の中に震える迷いを、弱さを、彼の腕の中で残らずさらけ出してしまいたい。そう思った。
「知ってるの……兄さまが、麻薬(ハッシシ)を村に持ち込もうとしたって……兄さまの遺品の中にあったって……」
「――ハルシア」
「ごめんね……兄さまのこと、自業自得だなんていうんじゃないの。仇を討つの、やめようなんて言いたいんじゃなくって――
 なんか、うまく言えないけど――怖いの。すごく怖いの……こんな、誰がいけないのかわからないまま、剣をひとに向けなくっちゃいけないのが――」
 しばしの沈黙が落ちた。燭台(しょくだい)の炎がわずかに揺らぎ、壁に映る二人の影がそれにあわせて歪んだ。
 ――シャザムの腕が、ハルシアの身体をひときわ強く抱きしめる。自分の耳元で愛する人の声が短く囁(ささや)くのを、彼女は聞いた。
「――大丈夫だ」
 短い言葉。問いの答えになっているわけでも、なんらの説明になっているわけでもない。けれど――ハルシアは思った――そう囁かれただけで、本当に心配すべきことが何もないように思えてくるのは、なぜなのだろう?
 シャザムの身体の重みが、ハルシアの肩にかかった。寝台に腕をついて一瞬だけ堪(こら)えたあと、彼女はシャザムに押しかかられる形で寝台に崩れた。髪留めが外れ、長い黒髪がふわりと布の海に広がる。
「考える必要なんて何もない。あの商人を斃(たお)す。あの商人を斃して、俺たちは婚礼をあげる。それだけだ」
 はっきりとした口調で言うと、シャザムはハルシアの首筋に顔を埋めた。
「……は…ぁうぅっ」
 首の上を細く這う舌の感触――鈍い痺(しび)れの波が、ハルシアの身体を疾(はし)った。思わず眉を寄せて、肩をぎゅうっと縮こませる。
 衣の胸の袷に、シャザムの腕がためらいがちに滑りこんだ。ゆっくりと前がはだけ、細い肩と、なだらかな双丘(そうきゅう)が露(あら)わになってゆく。
「ま――待って……シャザム……」
 シャザムは待たなかった。
 兎の仔をなでるような手で、どちらかといえばまだ幼いハルシアの胸の膨らみを包み込み、もう一方の手でか細い腰を抱く。
「明かり……恥ずかしいよぉ……」
 シャザムに押さえつけられたまま、ハルシアは手探りで燭台の火消し蓋を探す。
 ――見つけた。
 蝋燭に蓋をかけると、部屋の中はふっと闇に沈む。それと同時に――
 切なげな声を洩らそうとした彼女の唇を、シャザムの唇がそっと塞(ふさ)いだ。
 
 

 ――――。
 闇の中に、淡い焔がぽうっ……と灯った。燭台の明かりが再び、狭い部屋の中を柔らかく照らしあげる。
 シャザムは寝台の上で半身を起こし、窓の向こうに浮かぶ真夜中の月を眺めていた。
 すぐ隣で聞こえるのは、微かな、規則正しい寝息。
 振り向いて視線を落とすと、そこにはハルシアの裸身が横たわっている。滑らかな肌がいまだ稚(いとけな)い曲線を形作る――ともすればいまにも壊れてしまいそうな、華奢な身体。
 シャザムの身体にぴったりと寄り添うようにして、彼女は眠っていた。かすかに膝を曲げ、幼子を想わせる姿勢で。
 幾筋かの黒い髪が頬に落ち、そのまま唇の上にかかっている。ハルシアの吐息が紡がれるたびに、それは柔らかく震えた。
 楚々(そそ)とした――先程まであれほど狂おしく乱れたことが信じられぬほどに清らかなその顔に浮かぶのは、安らかな微笑。あたかも、母親の乳を心ゆくまで飲み干してそのまま眠ってしまった仔羊のような、満ち足りた表情。
 シャザムの心の奥に、すくん――と鈍い疼(うず)きが生まれた。
 そう、それは心の呵責(かしゃく)。うしろめたい罪の意識。
 彼女の寝顔を見つめているうちに疼きは少しずつ、だが確実に膨らんでゆく。
 これほどまでに。
 これほどまでにすべてを自分に委ねてくれているハルシアを、俺は――
 目を閉じて、ちいさくかぶりをふる。
 とうとうここまで来てしまったな。
 心の中で、シャザムはそう呟いた。
 もう、後戻りはできない。
 ひとたび偽りに手を染めたならば、終わりをも偽りの手にゆだねるほかはないのだ。
 そう。
 もう、後戻りは、できない。
 ――今一度、シャザムはハルシアの顔に目を落とした。
 幼い頃から、ずっと一緒だった少女。
 心を言葉に表すことにも、表情に表すことにも不器用であった自分。少年期を過ぎた頃よりむしろ自ら冷淡の仮面を被り、心をその中に封じ込めてきた。
 それでも、彼女にだけは隠しておくことができなかった。
 弱さも、悩みも、激情も――無表情の仮面などまるでないかのようにこちらの心を見透かして――そして、知っていながらさりげなく、いつでも自分を気遣ってくれた。
 だが。
 彼女ですら、ハルシアですらも知らない事実が、ひとつだけある。
 いかに彼女を想えども、否、想えばこそ明かせなかった嘘。
 それを知ったならば――君は。
 ハルシア。
 それを知ったならば、君は、俺を憎むだろうか。


 君の兄を、キルギスを殺めたのが、もしも俺だと知ったならば――




To be continued……