第六話 『絆と嘘と』


 おお……おぉおおおん……
 天上で巨神が嘆いているかのような、低い風のうなりが街路を駆けぬけてゆく。
 バフシャールは砂漠に四方を囲まれた都だ。ひとたび砂嵐が始まれば、街の全ては道の向かいすら見えぬほどの黄砂(こうさ)に覆い尽くされる。人々は窓という窓に内側から備え付けの板を掛け、家の中で燭台(しょくだい)に炎をともして息を潜めているほかない。
 だが、このムルドゥ=ハキムの館では少々話が違った。
 窓はすべて、透き通った玻璃(はり)の板が張られている。たとえ砂嵐がやってきても、部屋の中にいながら外の様子をうかがうことが可能なのだ。
 イルヴァンは窓辺の柱に背をあずけ、砂塵と街並みとが織り成す沈鬱(ちんうつ)な影絵を眺めていた。唇の端に、歪んだ笑いを浮かべて。
 ――まったく、心踊る日だぜ。
 都の誰もが忌み嫌う風砂ですらも、今の彼にはむしろ爽快ですらあった。不吉に唸(うな)る風の音は、復讐の劇を盛り上げる伴奏だ。
 玻璃の窓に映る、己自身の痩(や)せた相貌(そうぼう)。眼帯をずらし、傷跡を確かめるように指で撫(な)でる。その傷がやけに疼(うず)くのもやはり歓喜がゆえであろう。
 ただ――復讐という名の美酒に酔いながらも、イルヴァンの頭は冷徹な計算を組み上げていた。
 本当ならばシャザムというあの男をいつまでも己の掌の上にとどめ、気が晴れるまで苦しめ抜いてやりたいところだ。
 しかしハッサンをはじめ、監視に使っている部下たちも本来はハキムの商用を果たすための人員――それを無視して私怨のみのために動かしつづけるわけにはいかない。
 復讐者である以前に、イルヴァンは商人ムルドゥ=ハキムの片腕だ。復讐といえどもあくまでも効率良く、あわよくば己の主人たるハキムに利をもたらすように行わねばならない。
 そのために、三日間という枠を設けたのだ。
 ――その間は……せいぜいのたうち回ってもらうぜ、シャザムさんよ。
 彼らのすぐ側にはハッサンが昼夜を問わず貼りついている。この三日のうちにとるべき行動もすべて伝達済みだった。感情というものを持たず、機関(からくり)のごとく正確に指令をこなす男だ。失策を犯すこともよもやあるまい。
「くくっ――ひゃははははははっ!」
 窓の外を見据えたまま、イルヴァンは沸きあがる歪んだ歓喜を哄笑の形に吐き出した。
 黄砂に煙る街並みの果て、突き出るようにぼんやりと浮かぶ礼拝塔の影。
 それは、彼の復讐の最後の舞台となるべき場所であった。


「やっぱり……すごい人だね。昨日あんなに風が吹いてたのに」
 シャザムの横に並んでそっと袖を掴むと、ハルシアは微笑んだ。
 都中央の市場通り。
 建物のひさしに積もった砂のほかは、昨日の嵐を思い起こさせるものはもはや何も残っていない。晴れた空から降り注ぐ日射しのもと、街路を行き交う人々――市場が一日閉鎖された反動か、むしろその数は増しているようだった。
「……ね、シャザム」
「――ああ」
 街路の先を見つめたまま、シャザムは応える。声に力がこもってないことが自分でもわかった。
 ハルシアが不安げに眉を曇らせて、顔を見あげてくる。無理もないことだ。あの眼帯の男が部屋を訪れてより二日間、シャザムはずっとこの調子だった。
 もとより、あまり自分から口を開くシャザムではない。ハルシアもそれを心得ているから、たとえ黙ってはいても気まずい空気が流れることはなかった。ふたりにとっては沈黙もまたひとつの、安らぎに満ちた対話なのだ。
 だが――この二日間の会話の断絶は、そういった普段の雰囲気とはかけ離れたものだった。
 吸いこむ息にすらも密度を感じるような、重苦しい沈黙。
 気遣ったハルシアが口を開いても、その重圧に呑まれた言葉は途中で立ち消えてしまう。不安げに揺らめく燭台の火のみが照らす部屋の中に、締め切った窓の向こうから風の唸りだけが虚(うつ)ろに聞こえてくる――昨日は、そんな一日だった。
 そして、一昼夜の砂嵐が過ぎ去った今日。ハルシアが、街を散策してみたいとシャザムに告げたのだ。


「……ごめんね」
 消え入りそうな呟きが、不意にハルシアの口から洩れた。
 唐突な謝罪の意味を解せず、シャザムは視線を向ける。笑みと形容するにはあまりにも弱々しい――憂いに沈んだ微笑を可憐(かれん)な顔に宿らせて、ハルシアが彼のほうを見あげていた。
「疲れてる……よね? シャザム、目の下隈になっちゃってるもん。ごめんね、外に出たいなんて――わたし、シャザムの気晴らしになるかなあって――」
 良くない出来事の責すべてを己の中に抱えこんだ、痛ましい声と表情。
「いや――」
 かぶりを振って、シャザムは少女の髪にてのひらを置いた。
違うんだ、ハルシア――君のせいじゃない。すべては、この俺の――
「――いいんだ」
 思いとはうらはらに、発することができたのはそんなそっけない一言だった。もどかしさに思わず、彼女の頭に置いた手に力を込めかけ――ふと我に返って、そのままつややかな黒髪を撫でおろした。
「――へへ……」
 照れたように、ハルシアがはにかむ。それにつられてほんのひと刹那、シャザムはぎこちないながらも二日ぶりの笑みを唇に浮かべた。
 だが視線を正面の街路に戻した時、彼の心は再び思考の迷路の中に踏みこんでいった。
 確かに、疲弊(ひへい)しているのは自分でもわかる。今日の朝、宿の水桶に映った己の顔――青ざめた肌とかすかに落ち窪んだ目は、まさに病人のそれだった。
 あの男――イルヴァンという隻眼の商人がシャザムの魂に撃ちこんだ毒針は、おそらく狙い通りにじわじわと効果を発しているのだ。
 これまではいかなる迷いも憂いも、ハルシアだけは知っていてくれた。だが今回だけは、このキルギスに関する一件だけは違う。いわばシャザムは、初めて己独りで困難に立ち向かわなければならないのだった。それも、完全に敵の掌(てのひら)の上に乗せられた絶望的な状況で――
 己の脆(もろ)さを彼はいま、心の底から思い知らされていた。
 気のせいだと解ってはいても、雑踏の中から自分に向けられた視線を感じる。
 嘲笑を浮かべたあの男が、どこかで自分達を見ているような気がする。
 痩せた顔と、傷を隠した黒い眼帯。そう、あの交差路の向こうから――
「――――」
 シャザムは思わず足を止めた。
「……どうしたの、シャザム?」
 側らで呟くハルシアに、しかし彼は応えることも視線を向けることもできない。
 シャザムの目は、交差路の向こうに釘づけになっていた。雑踏の中に佇む人影――右の瞳を眼帯で隠した、その風貌に。
 隻眼の商人、イルヴァン。
 一瞬視線が交錯し――男はきびすを返して人の海の中に歩み去ってゆく。
 あたかもシャザムを嘲笑(あざわら)うかのように。
 反射的に、シャザムは雑踏の中に足を踏みだしていた。
「シャザム――?」
「ハルシア――すまない、ここでしばらく待っていてくれ」
「ま、待ってって、シャザムっ――きゃっ」
 ハルシアの小さな悲鳴が背中に届いた。後を追いかけてこようとして、道行く人間にぶつかったのかもしれない。
 人ごみを乱雑にかき分け、シャザムは痩身の影を追った。押しのけられた者たちの間から、怪訝な視線と抗議の罵声(ばせい)が飛ぶ。だが、それを気にかけている余裕は今のシャザムにはない。
 雑踏の間を縫って歩む男と、雑踏を散らして走るシャザム。両者の距離はみるみるうちに縮まってゆく。
 こちらを振り向きもせぬままに、影は路地を曲がろうとした――シャザムが追いついたのはちょうどその時だ。
 肩に手をかけ、指に憤りそのままの鋭い力を込める。
「――何のつもりだ――」
 静かな、しかし冷ややかな殺気を宿した声を、シャザムは男の背に投げかけた。
 刹那の間をおいて、男が振り向く。
 痩せた顔。眼帯に覆われていない側の瞳に――
――驚きと、怯えの色を浮かべて。
「な、何だよあんたっ! いきなりっ!!」
「――――」
 シャザムは絶句する。
 違う。
 こけた頬と眼帯という相貌は同じだが、イルヴァンというあの商人ではなかった。我に返って目の当たりにしてみれば、背格好も微妙に異なっている。
「おいっ」
 人違いと知って怯えの縛めから解かれた男が、声を荒げてシャザムの手を払った。
 謝罪の言葉すら忘れて、シャザムは呆然と立ちつくす。
 頭の中が真っ白になっていた。別人だったという驚きに――というよりはむしろ、似ているというだけで目の前の男をイルヴァンと見粉った自分、あの商人の幻影に怯え蝕(むしば)まれている自分自身に。
 シャザムを見る男の表情が、再び怒りから不審へと動いた。二、三歩を後ずさると彼は背を向け、足早に雑踏に消えてゆく。
「――ったく、狂ってんじゃねえのか」
 耳に届く、露骨な舌打ちと悪態。
 それに応えることもできず、シャザムは男に払われた自分の手に虚ろな視線を落としていた。
 周囲に小さな人垣が築かれる。好奇の視線とささやき声が織り成す檻のなかで、それでも彼は途方にくれたままだ。
 ふと――その背中に、そっと誰かの手が触れた。
 振り向くと、いつのまにか追いついたハルシアが彼を見上げている。蒼白な顔と、今にも涙が溢れ出しそうな潤んだ瞳で。
「帰ろう――ね、シャザム」
 無理に浮かべていることは明らかな弱々しい微笑。怯える幼子をあやす母親の口調で、ハルシアは柔らかに囁く。
 シャザムは頷いた。あたかも、壊れかけた傀儡(くぐつ)のように。
 ――場違いなまでに穏やかな陽射しが、街路を、悄然(しょうぜん)と歩む二人を照らしている。


 階段を登る足取りがやけに重い。床があげる軋(きし)み――普段ならば意識することもないであろうその音が、一歩ごとにはっきりとシャザムの耳に届いた。
 それとも、軋みをあげているのは己自身の心なのであろうか。
 ――狂ってんじゃねえのか?
 先程投げつけられた言葉が、いま一度脳裏に甦る。
 俺は確かに、狂い始めているのかもしれない。いや、むしろもうずっと前から狂ってしまっているのかもしれない。あの黄昏の岩場でキルギスを殺し、それを知る者たちを残らず手にかけたその時から。
 ハルシアを失いたくない。ハルシアに真実を知られるわけにはいかない。その思いだけに囚われ操られた、今の俺は愚かしい傀儡(くぐつ)でしかないのだ。
 引き戸を開け、ふたりは部屋の中に入った。
「待っててね――いま、下でお水買ってくる」
 ハルシアは明るい声で言うと、荷物を置いて再び階段を降りてゆく。遠ざかるその足音を聞きながら、シャザムは寝台に腰を落とした。
 この部屋も、初めて訪れたときとはまるで別の空間のようだ。あの男――イルヴァンが闖入(ちんにゅう)してきた時から、その残滓(ざんし)がうっすらと空気の中に漂っているような気がする。
 なんとはなしに室内を見回し――シャザムはふと目を細めた。
 何であろうか、微妙な違和感が胸の底を掠めたのだ。
 もう一度視線を巡(めぐ)らせ、そして彼はその感覚の正体に気づいた。
 寝台の側らに置いておいた、シャザムの短剣。それがいつのまにか抜き身になって、机の上に斜めに突き立っている。
「――――」
 出かける前はこんな有様になってはいなかったはずだ。とはいえ、客が部屋を空けた間に宿の人間がこのような無礼をはたらくとも思えない。
 となれば、導き出せる結論はひとつしかなかった。


 ずうっと見張られてんのさ、あんたたちはな。


 ちいさくかぶりを振って脳裏の声を追い払い、シャザムは立ちあがった。ともかく短剣を引き抜こうと、柄に手をかける。
 その刹那。
「…………!!」
 シャザムは――彼の目は『それ』を捉えた。刃の切っ先に突き刺さった小さな紙切れと、その上に並んだ文字を。
 全身を走り抜ける衝撃は、声すら成さぬ掠れた空気の塊となって喉をつく。
 イルヴァンが仕掛けたものに違いなかった。あの商人でもなければ、このような紙片は持ちえないからだ。おそらくはムルドゥ=ハキムとの契約書か、それに類する何かから切り抜いたのだろう。
 シャザムの刃をもって深々と貫かれ、卓の上に縫いとめらたもの。
 ――それは、羊皮紙の上に書かれたキルギスの署名だった。


 視界が、ぐらりと傾ぐ。
 眩暈(めまい)にも似たその感覚の中で、しかしシャザムの視線は卓の上に釘づけになっていた。 目をそらすことができない。悪意と嘲りが凝縮したかのごとき、その短剣から。
 
 
 ――ずうっと、見張られてんのさ

 
 ほとんどひったくるような動作で短剣を引きぬく。抜き身の刃を片手に下げたまま、シャザムは部屋の中に視線をさまよわせた。
 聞えるはずのない隻眼(せきがん)の商人の哄笑が、壁に、窓に、天井に、幾重にもこだましてシャザムの耳に響く。
「何処だ――何処にいる?」
 不安、恐怖、憤怒――その全てがないまぜになった塊が、胸の奥で渦巻きながら膨らんでゆく。額から流れる汗が目に入り、歪んだ視界をさらにぼやけさせた。
 みしり。
 天井の隅で響くかすかな軋み。
 耳がそれを捉えた瞬間――感情の塊はシャザムの中で、理性の枷(かせ)を消し飛ばす。
「――――っ!!」
 声すら成さぬ叫びを喉から迸(ほとばし)らせ、シャザムは短剣を投げつけた。音のしたあたりを目がけ、力まかせに。
 硬い衝突音をあげて天井に突き立った刃は一瞬ののち、自身の重みに傾ぎ、床に落ちた。
 脳裏に響くイルヴァンの哄笑がさらに大きくなる。堪えかねて両手で耳を覆っても、むろんそれを遮ることはできない。
 ――と。
「…………ム」
 嘲笑の奔流のなか、微かな囁(ささや)きがシャザムの耳に届いた。
 あの声は。
「シャザムっ――」
 振り向いたその先――寝台の側らにハルシアは立ちつくしていた。両手に水を湛えた杯を持ったまま、表情を凍りつかせて。
「シャザム……?」
 涙ににじむ声で呆然と呟く彼女のほうに、シャザムは吸い寄せられるように歩み寄った。
 ハルシア――
 視界が傾くような発作に襲われ、足がもつれる。ハルシアの身体に正面からもたれる形で、彼は倒れこんだ。
「――きゃっ……」
 水しぶきが宙を泳ぐ。ハルシアの手を離れた杯が床に落ち、かしゃんという音とともに砕けて散った。それと同じ音が、シャザムの胸の中で響いた。
 二人の身体はもつれたまま、寝台の上に崩れる。
 ハルシアの華奢な身体を、シャザムは――彼の腕は、思わずかき抱いていた。腕に力を込めて、折れてしまわんばかりに。
「ふぁっ――」
 驚きの入り混じった苦しげな声を洩らすその唇を、貪(むさぼ)るように塞ぐ。
 自分が何をしているのかももはや解らない。解らないままに、ハルシアの衣の襟元に荒々しく手をかけた。
「……ん……んぁっ……!!」
 組みふせられたまま、ハルシアが弱々しくもがく。ようやく開放された唇から、かすれた吐息と声とが紡がれた。
「――やめっ――シャザムっ……」
 露になった肩をきゅっと縮こませ、首を横に振るハルシア。
 そのなめらかな喉元に、シャザムは舌を滑らせる。彼女の身体は腕の中で一瞬魚のように跳ね、そして動きを失った。
 シャザムの舌と指は抑制を失ったまま、愛する少女の肌の上を這い続ける。河に溺れゆく者が、船のへりに懸命に縋るかのごとく。快楽の坩堝(るつぼ)の中に己の身を投げこんでいなければ、このまま自分は壊れてしまう。そんな気がした。
 衣の前を大きくはだけ、横たわるハルシア。稚い曲線を描く胸の膨らみに、シャザムはてのひらを乗せ――
 

 頬に、鋭い痛みが走った。


 何が起こったのかも判らずに、シャザムは呆然と動きを止める。
 ハルシアはすばやくシャザムの腕を抜け出し、寝台の上をあとずさって彼のもとから離れた。その瞳に、涙を溢れさせて。
 ようやく、シャザムは気付く。彼女のてのひらに頬を打たれたことを。初めて彼女に拒絶されたことを。
 ハルシアは衣を胸の前にあわせた。正面からこちらを見つめるその瞳に浮かぶのは、怒りの色ではない。いまにも弾けそうな、膨れあがる悲しみ――
「――違う――こんなの、違うよっ、シャザムっ――」
 両のてのひらで顔を覆って、ハルシアは首を振った。
「――――」
「シャザム――わたしを見てなかったもん――嫌――わたしを、見てないシャザムに、抱かれるのは――嫌――」
 しゃくりあげながら、その唇が震える声を紡いでゆく。興まる感情がゆえにほとんど脈絡を成していない、言葉の断片を。
 シャザムはかけるべき声をもたなかった。焦燥(しょうそう)から逃れたいがために彼女の身体だけを求めてしまった自分には、謝罪の言葉を発する資格すらもない。
 頬が痛んだ。
 決して強く打たれたわけではない頬が、肌の痛み以上に鋭く深く痛んだ。
 沈黙。
 ハルシアはシャザムの前に寄って、胸に額を押しあててきた。
目の前にあるその細い肩にそっと手をかける――これまでは当たり前のように繰りかえしてきたその動作を、シャザムの腕は目に見えぬ何かに禁じられていた。
「シャザム――」 
 いたたまれぬ沈黙を破って、ハルシアは聞こえるか聞こえないかの声で口を開いた。


「わたし――わたしね。シャザムの口からだったら――どんなことを聞いても驚かないよ」


「――――」
 小さいながらも確かな意志を宿したその言葉は、澄みわたる刃となってシャザムの胸に滑りこむ。
 そう、察せぬはずはないのだ。
 自分が彼女に何かを隠しているということ。それを打ち明けることができず、ゆえに憂乱に瀕(ひん)しているのだということも。
 幼い頃から、どんなちいさな隠しごとも見通してきたその澄んだ瞳――。
 喉元まで、言葉がせりあがってくる。
 吐露(とろ)してしまえ、全ての真実を。
 

キルギスを殺したのは、俺だ。俺はずっと君を欺(あざむ)いて――


 言えなかった。
 この嘘だけは、貫き通さぬわけにはいかなかった。
 狂わんばかりの罪の呵責に苛まれながら、シャザムは声を発しかけた唇を結んだ。
 再びふたりを包む、沈黙の帳。
 窓の外――どこか遠くで聖堂の鐘が鳴っている。
「シャザム――あのね、わたし――」
 再び口を開くハルシア。だがその言葉は最後まで紡がれることなく、途中で重い吐息に溶け消える。
 長い、とてつもなく長い数秒。
 シャザムの胸に顔を押しあてたまま、ハルシアはちいさく首を横に振った。そして――シャザムの両の肩にその腕を回し、ゆっくりと顔をあげた。
 涙はもうない。強い意志をその奥に湛えた瞳が、まっすぐにシャザムを見すえる。
 次の瞬間、彼はハルシアの腕に抱き寄せられていた。あたかも、遠き異国の聖母像の腕に眠る赤子のように。剣を扱うものとは思えぬほど細い彼女の腕は、しかし柔らかな温もりでシャザムを包みこむ。
「……逃げよう」
 耳元で、あやすような微かな声が囁いた。
「――……?」
 言葉の意味するところを解せず、視線を向けるシャザム。どこまでも深く澄みわたる、ハルシアの微笑がそこにあった。
「――逃げちゃおう、もう。
 仇討ちなんて、やっぱりわたしたちには向いてなかったんだよ。だから――ここを出て、村にももう帰らないで、どこかでふたりで暮らそう。
 ――ね、シャザム――」
 ちいさな彼女のてのひらが、幾度も幾度もシャザムの背を撫でる。
 彼は、ハルシアの瞳を見つめた。数知れぬ感情の塊が胸の底から、喉元のあたりに衝きあげてくるのを感じながら。
 見知らぬ街で、ハルシアとふたりで暮らす――脳裏に浮かんだ刹那の幻を懸命に打ち消して、彼は首を振る。口元に、微笑を浮かべて。
「――すまない――心配をかけるな」
 言葉がごく自然に、唇を滑りでた。
 イルヴァンの放った見張りが都中に散らばっている以上は、逃げるというのはできない相談だった。
 だが、それでも――
「大丈夫だ。もうすぐ終わる。もうすぐ――」
 久方ぶりの、力を込めた声でシャザムは言った。
 偽りのつもりはない。
 指定された日は明日――イルヴァンは、街外れの礼拝堂でシャザムを待っているだろう。おそらくは、数多の部下を引きつれて。
 己の剣ひとつで、今度こそ奴らを一人残らず斬り倒す――それは不可能に近い。不可能に近いと、シャザムは思っていた。
 だが、成しとげるしかないのだ。
 ハルシア。
 生まれ育った土地と、ともに過ごした部族すらも捨てさると言った、愛すべきこの少女のために。彼女のためにならば、今一度鬼神の剣を振るえる気がした。
「……シャザム……」
 ハルシアは微かに眉を曇らせて、口を開きかけた。だが思いなおしたように唇を噤(つぐ)んで頷くと、シャザムの背に回した腕に柔らかな力を込めてくる。
 その温もりの中、シャザムはあらためて感じていた。
 幾度もこの少女を抱きながら、抱かれていたのはいつでも自分のほうだったのだと。護られていたのは、いつでも自分のほうだったのだと。
 ハルシアの胸にそっと顔をうずめながら――シャザムは初めて、彼女にすら今までみせたことのない涙が己の瞳ににじんでいるのを知った。



 シャザムの肩をそっと抱きながら。
 シャザムの背中に、まなざしを落としながら。
 ハルシアはいいようのない後ろめたさに胸をつかれていた。
 なんて――狡いのだろう、わたしは。
 眉が曇るのが、自分でも判る。だがしかし、彼女の胸に顔を埋めるシャザムにはその表情の変化を見ることはできない。
 そう。彼は知らない。
 シャザム。幼い頃から片時も離れることなく時を紡いできた、己の半身。 
 全てのことを分かちあってきた、最愛のひと。
 されど――
 彼は知らない。知らないのだ。
 わたしが胸の中に隠した、たったひとつの嘘を――




To be continued……