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想像力のウルトラC 〜Xchangeに見る美少女ゲーム新時代の曙光〜
文: 八重洲一成
高橋留美子『うる星やつら』は、僕らにとって住み心地の良いファンタジー世界だった。
“僕ら”というのは、八〇年代という“時代”を少年として過ごした僕らのこと。
『うる星やつら』の主人公、諸星あたるは、僕らと同じ、ごく普通のさえない少年だった。
顔が良いわけでもない。
勉強が出来るわけでも、スポーツが得意なわけでもない。
特別に正義感が強いわけでもない。
ただの凡庸な少年だ(ガールハントにかける異常な執念を別とすれば)。
そして僕らは、そんな諸星あたると、容易に自己同一化をはかることができた。
『めぞん一刻』のさえない主人公、五代君の場合もしかり。
僕らは常に、諸星あたるであり、五代君だった。
『うる星やつら』というファンタジーの中で、諸星あたると化した僕らを待っていたのは、虎縞ビキニ姿の魅力的な美少女、ラムちゃんだった。あるいは、清楚でおっとりとした、でもちょっとやきもち焼きの響子さんが僕らを迎えてくれた。
どう考えたって、現実にはあり得ない事態だ。
仮にラムちゃんが実在したとしても、何が悲しくて、一般家庭の少年のもとに押し掛け妻として居候しなくてはならないというのか。
また、実際にアパートに下宿をしている大学生ならば、「若くて綺麗な管理人さん」という存在が、ヘタをすると宇宙人の美少女以上に非現実的だということを実感していることと思う。
そういうものなのだ。
現実がそういうものだからこそ、ファンタジーという「装置」が僕らのために用意されている。
平凡な一少年がいっとき、宇宙人の美少女と恋愛ゲームを演じ、可愛い管理人さんとのアバンチュールを体験する。
そんな夢を実現してくれるのが、「ファンタジー」という魔法の装置だ。
諸星あたるや五代君は、ファンタジー世界において、僕らの化身だった。
近未来SFに出てくる設定、「バーチャルネット上の自己イメージデータ」。これと同じ機能を果たしてくれたわけだ。
容易に同一化を図りやすい「自己イメージデータ」だったからこそ、僕らはすんなりと世界に入っていけた。
これは、今まで、うんざりするほど評論家達が指摘してきた事実だ。
だけど、その後、高橋留美子は『乱馬1/2』を世に送り出してきた。
正直言って、『乱馬1/2』の連載が始まったとき、寒気がした。
当時、僕は高校に入ったばかりの頃だった記憶している。
なんとういうことをしてくれるんだ、高橋留美子は。
それが僕の第一印象だった。
『乱馬1/2』という新たなファンタジーの中で、僕らのために用意されていた「自己イメージデータ」は早乙女乱馬という少年だった。
乱馬を、少年と言っていいのか、どうか。
彼は、水をかぶることによって女の子になってしまうのだから。
コミックスの表紙でも、目立つのは「女乱馬」の方。
高橋留美子は『乱馬1/2』という世界で遊ぶための条件として、僕らに「女の子になること」を強要してきた。
この乱馬の変身の設定がミソなのだ。
はじめから乱馬が女の子だったならば、少女漫画を読むように、相対化して主人公を眺めることになる。
だが、高橋留美子のトラップは巧妙だった。
まず、男乱馬に僕らを同一化させる。
その上で、男乱馬を女の子に変えてしまう!
トラップにかかった少年は、『乱馬1/2』の世界にいる間、たびたび女の子であることを求められてしまうわけだ。
この早乙女乱馬という危険な「自己イメージデータ」。
いったいこのような「自己イメージデータ」を受け入れることが出来るのか?
読者の少年達が高橋留美子に反旗を翻す。
女乱馬になることを拒否した少年達が、のみならず、高橋留美子の「トラップ」の危険性を糾弾するようになる。
拒絶反応。アレルギー抗体の形成。
僕は漠然と、そういうシナリオを予想していた。
だけど、知っての通り『乱馬1/2』はヒットを飛ばし、なんとテレビアニメにまでなってしまった。
拒絶反応など、起こりはしなかったのだ。
僕らは柔軟な想像力で、高橋留美子のトラップに適応した。
『鉄人28号』時代の読者では、こうはいかなかったろう。
つまりは、コミック文化がそれだけ日本において成熟段階に来ていたということだったのだと思う。
本来的には、ファンタジーという装置に限界はない。
だけど、装置を使うユーザーの方に、想像力の足かせがつきまとう。
動物にファンタジーは扱えない。彼らは空想をしない。
一日の大半を食糧探しに費やしていたネアンデルタール人にとって、可能なファンタジーはせいぜい「腹一杯喰うこと」だったに違いない。
ところが、生活に余裕が出来、文化と呼べるモノを獲得した人類は、やがて「神話」という形でファンタジーを扱う術を覚えた。
想像力は文化の成熟によって高度化していく。
コミックという文化の黎明期において、そこに働く想像力は素朴で柔軟性に欠けるものだった。
悪漢を光線銃でやっつける正義の少年。
実に無理のないファンタジー。
そして時代が下って、『うる星やつら』。
半裸の宇宙人美少女など、一世代前の漫画読者にとっては想像力の埒外だったろう。
だけどそれは僕らにとっては、無理のないファンタジーだった。
日本のコミック文化が成熟して、より高度な……より多様で変幻自在なファンタジーを提供できるようになっていたから。
ところが、高橋留美子はさらに一歩進んだ「応用問題」として『乱馬1/2』を僕らに出題してきた(『うる星』の竜之助は、「解答のヒント」だったのかも知れない)。
いずれにせよ、この難題を、見事に僕らは乗り越えたのである。
『乱馬1/2』のブレイクは、僕らの想像力がウルトラC難度のファンタジーを可能とした結果だった。
巨視的なレベルでは、繰り返しになるが、想像力は文化の成熟に比例する。
つまり、『うる星やつら』から『乱馬1/2』へのステップアップは、コミック文化が成熟の度を一段増し、より高度なものとなったことを示していたのだと考えたい。
成熟したコミック文化は、僕らが女の子になることすら当たり前にしてしまった。
コミックというメディアが提供するファンタジーは、この数十年で爆発的な進化を遂げたわけだ。
それでも、長い歴史を誇る小説というメディアにようやく追いついた、という言い方もできる。
だが、現在のコミック文化はそろそろ小説が開けなかった新しいファンタジー世界への扉をたたいているようだ。
コミック文化は、間違いなく僕らの同時代カルチャーの先端で牽引役を果たしている。
そして、幾つもの文化が、同じように高度な進化を遂げようとしている最中だ。
美少女ゲーム文化は、そのなかでも、最有力な「注目株」の一つである。
コミックと同様にファンタジー世界を生み出すことによって成り立っている美少女ゲームというメディア。
かつて僕らは『乱馬1/2』を通してコミック文化が新しい次元に達する現場を目撃した。
あのときと同じように、僕らは進化のプロセスを目の当たりにしているのかも知れない。
いま、美少女ゲームという世界から、目を離してはいけない。
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