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短期集中連載

『神話的性転換の世界を総括してみる試み』


 更新癖のついてるうちにやってしまおう企画その1。「yaysの性転換の館」としてこのホームページを開いて以来目にしてきたことを元に、性転換萌えの世界をここらで一度総括してみようと。そんな試みです。二十世紀中にやろうと思いつつ、いつのまにかこんなズレた時期にやってます。ドンマイ☆
 軽い論文調の読み物なんだけど、書いてる途中で飽きてくると単なる随筆とか日記とかの漫々とした語りになってしまうという。司馬遼太郎の「この国のかたち」の後半戦みたいなもんだと思ってください(何人がこの例えで分かるんだ……)。
 連載が3回くらいまで続いたら自分で自分を褒めてあげようと思います。


第壱夜
■ 神話的性転換という概念 ■

 まず最初に。神話的性転換とは、男性が女性に変じてしまうあらゆる種類のフィクションを包括する語だと了解しておいてほしい。口語的にはたびたび「性転換モノ」などと呼ばれる物語のことである。
 階段を転げ落ちた男女の人格が入れ替わる。
 呪われた泉で溺れた少年が女の子になってしまう。
 マッドサイエンティストによって違う性別の肉体に脳移植。
 etc.
 荒唐無稽ながら、コミック等では繰り返し使われている定番パターンである。こういった、登場人物が異性の視点から世界を体験するような物語を指すのに「性別変換」「性別変化」「TS」「TSF」「ギャル化」等々、関連サイトではユニークな呼称が使われていて、それぞれに微妙なニュアンスの違いがあったりなかったりする。ここでは最も包括的でかつアカデミックな場においても比較的違和感なく使用可能な用語(ターム)として「神話的性転換」という新語を提唱したい。(物事を論じるのに適切な用語の設定はかなり重要だ)
 さて、神話的性転換という概念をあらためて定義してみようか。その過程でなぜ「神話的」と呼ぶのかも説明していきたい。
 「要は、ファンタジーとしての性転換の物語である」。……これだけで終わらせてもいいのだが、その特殊性についてもう少し掘り下げたほうがいいだろう。

 ある種の魚類なんかだと、字義通り、性の転換をする個体がある。生理学的なオスから、生理学的なメスへの変化だ。しかしながら、万物の霊長である人間様の場合、あいにく男女の分化は固定的なものである。男性から女性への変化は不可能事。現実にはあり得ないことである。なるほど、性別再判定手術というものがある。ジェンダー・ディスオーダーと診断された人が受ける手術で、男性の場合はおちんちんを切り取り、余った部品で人工の膣を形成するそうな。現代医学とは大したものである。もっとも、生理学的な性、主に生殖機能に関しては変更する術がないのが現状であり、そういう意味では性別再判定手術は擬似的な「性転換」にとどまる。まして、脳移植や階段落ちによる人格交換においておや、である。早い話、人類史上で、誰かが真の性転換を遂げたという事例は存在しない。誰もそれを見たことがないのにそれを表す言葉が存在している。こと対象が人間である場合、性転換とは、「天国」「タイムマシン」「世界平和」といったあたりと同類の、観念の産物である。

 そもそも、人類の歴史で「性転換」らしき観念が成立したのは、かなり古い。ギリシア神話に登場する賢者ティレシアスは青年の頃、蛇を杖で打ったことが原因となり女になったという。その後、オリュンポスの神々の間で「男と女ではどちらが性の交わりにおいてより大きな悦びを得ているか」などという生々しい議論が巻き起こり、この議論に決着をつけるためにティレシアスが呼び出されて証言させられている。大賢者なのにそんなことで呼びつけられてさぞ迷惑だったろう(ちなみにティレシアスは「断然、女がいい」と証言したとか)。また、女→男という変身譚だが、カイニスという少女がカイネイウスという青年に変じたという説話もギリシア神話にある。現代的な疑似性転換の医療技術と無縁だった古代ギリシア人はどうやって性転換という観念に到達したのだろうか。人が鹿になったり、花に変わったりする神話もあるわけで、もともと想像力の豊かな人々がギリシア神話を作り上げていったのは間違いない。ただ、異性への変身を着想させるヒントはあっただろう。ひとつには、遺伝的な半陰陽の人々の存在があったろう。女性仮性半陰陽で、少年だとばかり思っていたのに思春期になると女性らしい体つきになっていった者は神々の悪戯でそうなったと思われたかもしれない。また、去勢というものがある。小アジアのフリュギア地方では神事において自らを去勢する風習があったそうた。その風習はそのまま去勢する女神キュベレとその犠牲者アッティスの説話として神話に記されている。古代社会における去勢の儀式の影響で、性の変化という幻想が芽生えたとしてもおかしくない。全くの余談になるが、古代日本は中国から宦官の風習を輸入することはなかった。これが、日本の神話に女装があっても性転換はないことと関係あるかどうか。
 さて、神話における男から女への変身譚で重要なことがある。それは、その変身が生殖機能込みでの完全な性転換だということだ。たとえ着想の元が女装・半陰陽・去勢といった事例にあったとしても、そこから、男が女に変じるという象徴的な「神話」が生まれたのである。ここでいう「神話」とは、現実(リアリティー)を否定した観念上の物語というほどの意味である。

 ギリシア神話を引き合いに出したが、本稿の議論にとって、古典テクストとしてのいわゆる『神話』は必ずしも重要ではない。本稿ではより広義の意味での「神話」を問題にしている。例えば、SF(空想科学)やファンタジィを、現代において神話を語るための装置であると考えることができる。その意味で、『悪徳なんて怖くない』で老いた富豪が若い女性秘書の肉体に脳移植される物語もやはり神話である。また、階段を転がり落ちたことで少年と少女の心が入れ違ってしまう『転校生』の物語などはまさに神話的だ。現代の医学・科学のリアリティーを否定して成立している点で神話的である。
 「神話的性転換」とは、現実のリアリティーと訣別した空想の産物としての性転換をさす。少なくとも、「yaysの性転換の館」が取り扱う対象としたのは、神話的性転換である。
 最近ではリンク先のサイトでしばしばTSFという用語と出会うようになった。それ以前はTSという用語が多かった。この、TS(=transsexual)にF(=fiction)という一字を足した思想も、神話性の強調を旨としていたと理解している。(さらにSF という語を含めたかったとか、F はfantasy のF も兼ねているとかいう話を用語提唱者の月華氏がされていたと記憶する)
 時折、このホームページが果たした功績、というものを考えることがある。功罪とりまぜて色々あるだろうが、そんな中で、性転換フィクションのファン層を切り開くにあたって最初期から「神話的性転換」をその話題の中心に据えられたという事が挙げられるだろう。

 ここで少し昔話。いまから四年ほど前になるわけだが、「yaysの性転換の館」を立ち上げてまもなくの頃である。永山薫氏から頂戴したメールで、海外のtransgender 系ウェブサイトの存在を知った。ホームページ製作前から、漠然とアメリカあたりには同趣旨のサイトがあるかもしれないとは思っていたのだが、実際訪れてみると、Nifty-Archiveのアマチュア創作物語など97年当時でかなり質・量ともに充実していてびっくりしたものである。海の向こうでは、パソコン通信全盛時代からすでに性転換フィクションというジャンルが認知されていて、作品の蓄積が進んでいたのだ。そして、アメリカのサイトを渡り歩くうちにあることに気付いた。米のtransgender fiction という分野は、ゲイ文化の一カテゴリーに属して発展してきたようだった。

 あちらのサイトでは、性転換フィクションを書くこととその作者が女装すること・女性化することはしばしば同根のものとして認識されている。例えとして拙劣かもしれないが、新宿二丁目の一区画に性転換系のお店が固まっている。そんな風に喩えることもできる。マイノリティのための居住区の一隅をあてがわれてぬくぬくと育ってきたジャンル、とも言えるだろう。米のサイトは、transgender にまつわる様々な意味性の中から「神話的性転換」を単独で抽出する認識に乏しい。そのため、「神話的性転換」のファンとして活動するのであっても、極論すると、ゲイ・コミュニティの末席に身を置かなければならない。これは、大いなる損失につながっているといっていい。創作などファン活動へ参入する人間を自然と限定してしまっている。もちろんここでゲイ文化を否定するつもりもないし(ひとくちに「ゲイ」で済ませてしまうのは不適当なのだが、そこは本題ではないのでご了承を)、自身の性自認の問題を出発点にした創作活動は当然あってしかるべきものだ。要は、切り分けができていないのが問題なのである。が、性転換という題材の特殊性からして、米サイトのようにゲイ文化から派生的に発展することは成り行きとして自然だともいえる。むしろ、日本で神話的性転換の世界が単独で発展できたことが幸運だった。性転換フィクションを集中的に扱うサイトとして日本でほぼ最初に生まれたのが「yaysの性転換の館」だったことには一定の意味があったと思う。現在に至るまで、神話的性転換というジャンルが比較的、純粋培養できている。それが「神話的」であることについて、ファンは自覚的であるべきだろう。サイトのありかた、創作の方向性にすら影響を及ぼしている大きな要素なのだから。

 yaysの性転換の館は、開設当初、サービスが始まったばかりの日本版ジオシティー上に作られていた。ジオシティーはホームページのテーマでドメインが変わってくるが、ホームページを開く場所として私は「アニメ・ゲーム」をテーマとするPlaytownドメインを選択した。これは、単なる趣味の問題ではなく、それなりに思案をしての選択だった。「アニメ・コミック・ゲーム」といった日本的なサブカルチャーは、重要なキーワードだった。「性転換」というある種、生々しい語を持ち出しながらもそれがあくまで神話的性転換であることを保証するために、ジャパニメーション文化の枠組みを援用することは非常に有効な手段と思えたし、事実そうだったのだろう。逆に、日本にそういった特殊な文化があったからこそ、yaysの性転換の館が生まれたということもできる。(このサイトがなくとも、遅かれ早かれ、似た趣旨でサイトを建てる人が出ていたと思われる)

 ここまで読んで気付いた人も多いことと思うが、私がyaysの性転換の館開設にあたってとった方法論は、ジャパニメーション文化と神話的性転換テーマの癒着という問題も内包していたことになる。ゲイ文化から神話的性転換テーマを切り離した代償として、今度はジャパニメーション文化との一体化が生じたという見方もあるだろう。この点に関しても、当事者はより自覚的でいるべきだ。また、サイト「ESPRIT」以降、この癒着の構造を解体する動きが出てきたのも非常に興味深い。ESPRITの追求した「スタイリッシュさ」は、ひとつには神話的性転換テーマの純化を求めたものだったのではないだろうか。

(第壱夜、終わり)



第弐夜
■ 再生産される物語 ■


 性別変化フィクションとは何なのか。
 これはなかなか難しい問いだ。内容面からの一時的な定義は、第壱夜に説明した通りである。しかし、「性別変化フィクション」というカテゴリーの文化的・社会的な意味となると、とたんに答えるのが難しくなってくる。SMやロリコンなどのような性的倒錯嗜好の一種だと位置づけるなら理解しやすくもなるが、それは一面の真実であるけれども全てを説明しきれていない。そう感じる。性別変化フィクションを「面白い」と感じるのに、性的なイメージは必ずしも絶対の要件ではないからだ。個々人の主観の問題もあるので一概に論じるのは困難だが、たとえば少年少女文庫に投稿された作品の人気度が、その作品の持つ性的なイメージの強さとは独立である事実などは傍証となるだろうか。そんなわけでフェティシズムの一形態として、性別変化を捉えるのには無理があると考える。
 では性別変化フィクションとはいったい何なのか。「ラブロマンス」「ミステリィ」といった物語のジャンル区分ともまた違った性質のカテゴリーである。
 暫定的に私はこう考えている。性別変化とは神話的主題(モチーフ)なのである、と。古典的な神話的モチーフの例としては、ピュグマリオン・コンプレックスがある。キプロス島の王ピュグマリオンが石像の女性に恋をしてしまい、王の情熱にうたれた女神が石像を本物の女性に変えてやったというギリシア神話のエピソードがもとになっている。この話のテーマは、人に似て人に非ざる人形への執着とでもいえるだろうか。ピノッキオとツェペット爺さんの童話もまさにそれである。ピュグマリオンのモチーフは、アシモフのロボット物に見られるように現代のSF作品の中で繰り返し再利用されている。また、ピュグマリオンの現代的な変形で、「心を持ってしまった人形の悲劇」というパターンの話も人気がある。コンピュータの出現によって人造物が心を持つ事態が想像可能になったため、このような神話的モチーフが新たに派生したのだろう。(我が国のサブカルチャーにおいては、石森正太郎の『人造人間キカイダー』がすぐ思い浮かぶ。最近ではCLAMPの人気作品『ちょびっツ』も正面からこのテーマを扱っている。「心を持ってしまった人形」に常に破滅のイメージがつきまとうのは興味深い)
 神話的モチーフは、必ずしも古典神話の時代に全てが出現しているとは限らない。上で述べた「心を持ってしまった人形の悲劇」というモチーフは、コンピュータが生活に浸透した現代であるからこそ、人の心を動かす何かがあるのだろう。神話的モチーフといわれるものの特徴は、それが語り継がれるところにある。物語が再生産される。ロボットの悲劇の物語を読んだ人間が、自分も同じモチーフに基づいて物語を語ろうとする。いわば、物語ウィルスのようなものかもしれない。このような特徴を、性別変化フィクションは確かに備えていると思われる。古典的神話では、ギリシア神話にしろその他の世界の神話にしろ、「性の変化」はあまりモチーフとして目立たない。性の変化が神話的モチーフたりえたのは、どうやらテレビやコミックといった現代的なメディアが出揃って以降のことになるようだ。



第参夜
■ アメリカ的日本的 ■

 この連載で神話的性転換に関する事を語るとき、しばしばアメリカ(英語圏)のtransgender fiction の世界を引き合いに出してきた。これからも引き合いに出す機会は多いだろう。自分の属している世界がどのようなものであるか知るための一番手っ取り早い手段は、その世界の外に出てみることだ。そうやって相対化の視点を持つことではじめて見えてくるものがある。神話的性転換を扱った日本のサイトにとって、最も身近な異世界が、英語圏のtransgender fiction サイト群だといえる。transgender fiction を扱ったサイトはアメリカに圧倒的に多い。EU圏ではぽつぽつと散見される程度である。アジア・アラブ・アフリカ圏は不明だが、一般家庭へのネットの普及率の問題もあり、日米より活動が盛んということはないと思われる。というわけで、自然、比較対象は米のサイトということになってくるのである。

 日米の性別変化フィクションを比べる。それこそ様々な切り口からの比較が可能だろう。その中で、今夜は、feminie advantage というものを考えてみたい。
 結論から入ろう。日本で語られる神話的性転換の特異的な性質のひとつとして、「女性化による優越性の獲得」というサブテーマの存在が挙げられる。ある男性キャラクターが女性になることで、他者をコントロールできるようになる。性的な場面で優位に立つようになる。社会的により敬意を払われる立場になる。などといったテーマである。森山塔の傑作『キはキノコのキ』では、いじめられっ子の少年が、少女へと変身することで、下駄箱一杯のラブレターを貰うほどの人気者になってしまう。この作品に限らず、女性化によるアドバンテージが積極的に描かれることが多い。男から女になった人物が、その利を生かして、男の友人や知己を翻弄するといった物語に見られるように、女性の肉体を得るということを「パワーの付与」と捉える風潮がある。これは、「日本的」な傾向なのだろう。その傾向を逆手にとって、あえて逆説的にディスアドバンテージを描いた作品として「みのり君の修業時代」(山本夜羽)があるほどだ。
 逆に、アメリカのtransgender fiction では、女性化によるディスアドバンテージを強調する傾向が強い。男が女になることによって社会的なステータスを剥奪されてしまうという、その立場のギャップを描くのである。日本では神話的性転換が「付与の物語」という側面を持っているのに対し、アメリカのそれは「剥奪の物語」が主流である。

 自由の国アメリカというイメージがあるが、アメリカ社会の性役割(ジェンダーロール)規範は近頃の日本より厳しい面がある。かつて女性解放運動の中心地となったのもアメリカなら、現在、その反動で家庭的な女性像が女性自身の間でもてはやされるようになっているのもまたアメリカ社会である。もともと開拓者の気風を受け継ぐ米社会では、家父長幻想がいまだに根強い。家族を支える「強い父親」という価値観が現代の日本社会に暮らす我々からは考えられないほど強固に根付いている。そういう父性社会なので、日本のように女子高生〜女子大生層が消費行動においてオピニオン・リーダーとなるようなことは考えられないのである。その点、日本では、「ケータイ文化」のように若い女性が、社会の中できわめて強いイニシアチブを発揮する。それは、戦後日本が家父長的な価値観を否定してきたことと一定の関係があるのだろう。諸々の要因から、戦後日本の社会は世界的にも珍しいと思われる母性社会を選択した。この点、過剰にマッチョであり続ける米社会とは好対照だ。
 この日米社会の差が、「付与の物語」「剥奪の物語」という差を生み出した。そんな想像をしてみたくなることがある。むろん、こういった人文科学的な論考の常で、明確に定式化された証明を行えるたぐいのものではない。そして真実であったとしても、一面の真実でしかない。現に、日本のサイトでも「剥奪の物語」は見られるし、逆もしかりである。ここで重要なのは「付与の物語」の構図に自覚的であることだ。現代日本社会の特異性が「付与の物語」を支えているとすれば、そのような構図の物語を拡大再生産していけるのは今、日本社会に住む我々の特権なのだから。

 ……都合により、今回で連載を終了します。このバカ長い文章を読んでくださった皆さん、ありがとうございます。……

番外 ■■
・このサイトも一定の役割を果たしただろうし、もう手入れが行き届かないようなら閉店したほうがいいという声が、知り合いから聞こえてきます。至極もっともな意見です。やりたいことより、やらなきゃいけないことのほうが増えてしまったのだし。が、ただ一つの心残りが。それは──Yahoo! に登録されたい。
これに尽きます(本当は他もあるけど挙げたらキリない)。思えば創設時から何度登録依頼をシカトされてきたことか。だから、ヤフーに正式登録されるまでは意地でも閉店しないっス!
・別な観点から。様々な理由により数年でウェブ上から姿を消す性変化サイトが多い中、ただひたすら存在し続けることを目標とするファースト・ポータルとしてこのサイトは存在意義があるか? はたまた、動脈硬化おこしてるサイトがポータルの位置に座り続けようとすることの弊害が大きいか。 或いは根本的な部分で、性変化フィクション系サイト群をある種のコミュニティのように捉える世界観を捨て、単に一サイトとして身の振り方を考えるべきか。そういうことを考える日もあります。


 


次回以降の予定だったお題
・同人的絵描きさんの不足
・外向的サイトと内向的サイト
・アジア圏の潜在的TS需要
・黒糖マーガリンパンの異常な美味さについて




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