鉄道のあゆみ  
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O u t l i n e

 平坦ではない山口往還電気鉄道の歴史。
 当時の記録を交えながら、その歩みをひとつひとつたどっていきます。

 

関連リンク    鉄路の記憶   沿革年表

 


萩電気鉄道時代

1:黎明の萩電気鉄道

 萩電気鉄道は、萩電燈会社がその母体となって発足した。
 萩電燈の発電所が存在する明木と萩を結ぶことは第一義であったが、将来は往還道を通じて山口を、そして三田尻を結ぶ遠大な構想も持ち合わせていた。 そこには、明治維新を成し遂げた志士たちを多く輩出した萩の意地を垣間見ることが出来る。

 国内の院線鉄道網を補完するという意義の強さは、地元出身宰相高杉佐之助の支援という形で現れ、山口へ向けての着工も目処が付いた。
 鉄道院線の進延という形もあり得たのだが、電鉄会社※1に対する地元からの強いこだわりと、それを支援する宰相の力も相まって、無事山口までの進延を成し遂げた。
 無論これには政治的側面だけでなく、技術面での支援も忘れてはならない。 最先端の隧道や橋梁など建設の面で強い支援を行ってくれた橘組※2(後のタチバナ)・鉄道工部事業団の存在があってのことなのだ。

※1電鉄会社=萩電気鉄道……地元では電鉄会社(でんてつがいしゃ)と呼ばれることが多い
※2橘組=タチバナ……大手ゼネコン 橋梁やトンネルなど、巨大公共工事を多く手がけた 現在経営再建中


2:大田へ向けて

 大田は萩電気鉄道にとってもう一つの目的地である。
 その理由は言うまでもなく秋吉鉄道との連絡であり、もうひとつの陰陽連絡を形成することにある。
 工事そのものは特に壁に当たるも無く順調に進んだものの、大田での秋吉鉄道との連絡で意外な難所にぶち当たった。
 神社地の用地買収だ。
 秋吉鉄道大田駅の北側は神社地があり、鉄道進延を阻んでいたのだ。 買収にも一向に応じる気配もなく、北側に接続する筈だった電鉄会社は頭をかかえた。
 だが、ねばり強く交渉を重ねた結果、神社地の一部売却で合意し工事再開、秋芳鉄道への接続が達成された。
 しかし、接続といっても駅直前にとんでもない急カーブを設けなければならず、これが半ば大田駅乗り入れを不完全なものとしていた。
 より完全な形の直通までは、更に時間を費やすことになる。


3:戦時統合

 太平洋戦争の激化に伴い交通統制法が施行され、萩電気鉄道も関係の深い周辺鉄道との合併を余儀なくされた。
 秋吉鉄道、伊佐石灰石鉄道の二つで、元々乗り入れなどで協力関係にあったため、移行は比較的スムーズに行われた。
 ただ、非電化区間を含むのに『電鉄会社』とはいかがなものか、という声もあったものの、萩電気鉄道の名はそのまま使い続けられることになった。


4:三田尻進延 そして山口往還電気鉄道へ

 三田尻への進延は幾つかのルートが策定された。
 ひとつは宮野上から東に山を迂回し、下小鯖、右田と抜けるルート。 ひとつは既に進延していた平井から山越えして小野を通り、小鯖、右田と抜けるルートである。
 北側のメリットは萩までの所要時間を短く抑えられること。 南側の利点は山口や湯田を経由することにより、三田尻・山口間の需要を容易に掘り起こすことができることにある。
 地元識者や自治体も交え精査された結果、南側ルートに決定された。
  これは、用地取得や山口への直通優先などと共に、また山口・湯田などを主要地の枝線化を避けるためであった。

 三田尻へのルートとして最大の難所が佐波山越えである。 工費、工期を圧縮するため、迂回路を通すことになる。
 また、三田尻への乗り入れは、市街地買収を極力避けるため、当時経営難に喘いでいた三田尻参宮鉄道を買収の上、敷設済みの路線をそのまま使用することとした。 但し、三田尻参宮は一部併用軌道であることと600V電化であるが故、将来の改造工事を迫られることになる。

 こうして辛うじて三田尻進延を成し遂げた萩電気鉄道は、往還道貫通を新たな出発点と位置づけると共に、山口県を代表する鉄道会社としての誇りを胸に、『山口往還電気鉄道』 と社名を変更した。

三田尻参宮鉄道……1911〜1952 三田尻駅前、千日、防府天満宮を結ぶ電気鉄道。 小柄な電車がコトコト走り、地元には『ミタサン』の愛称で親しまれていた。




山口往還電気鉄道としての歩み

1:全線1500Vへ

 戦前から使い続けてきた車両が老朽化によって故障が頻発するようになり、置き換えに関する調査が始まった。
 ただ、山口往還電気鉄道は1500Vの他に600V区間、非電化区間も抱えるなど、動力方式の不一致は体力の弱い地方鉄道にはいかにも荷の重いものであった。 そこで、全ての路線を1500V電化とすることで計画を進めることとなる。
 電化と一口にいっても、単なる新車導入よりも遙かに経費が掛かる。 そこで、電鉄会社としては地元支援の取り付けに奔走した。
『電化すればスピードアップします』 『直通電車で乗り換えも不要です』 『新型電車は観光振興にも役立ちます』
 この触れ込みを用いて周辺自治体を口説き倒した。 特に三番目の文句は効果絶大で、変電所の改造や増設に掛かる費用の75%の取り付けに成功した。

 電気鉄道と名乗っていても未だ非電化区間を抱えるという矛盾は、こうして解消されたのである。


2:試練の時

 山口往還のみならず、鉄道会社全体への脅威として存在したものに、モータリゼーションの台頭がある。
 国道に続き高速道の急速な整備は、斜陽産業と言われた鉄道輸送に猛烈なダメージを与えるのに十分であった。
 特に地方鉄道はその影響をもろに受けてしまい、より苦しい経営を強いられることになった。
 そのため、山口往還でも新規事業にも力を注ぐことで、メインである鉄道業の経営を補おうとするが、これもなかなか目論見通りにはいかなかった。
 そしてそれに追い打ちをかけたのが、山口電車庫の火災事故である。
 主に萩防南線の車両を格納していた電車庫の火災で、主力の100形電車や110形電車、急行用の300形電車まで失い、ますます窮地に立たされることになる。


3:地元の力

 往還電気鉄道の窮地を救ったのは、地元の支援であった。
 県や周辺自治体から支援を受け、また地元からの募金や利用促進運動など、暖かい支援は電鉄会社社員を勇気づけ、復興への原動力となった。
 会社としても独自に畿内日本鉄道からの出資を取り付けるなど、資金繰りに奔走した。

 同時に地元からの意見や要望の集約、それに応える努力も忘れてはいけない。 あくまで地元民の為の鉄道、という信念を胸に、改革に取り組んできたのである。
 無論、コスト削減などだけではなく、より親しみやすさを感じてもらうための施策も積極的に導入した。 そのなかの一つがラインカラーの選定、そして地の利を生かした季節列車の運行である。

 その全てがうまくいったとはいえないが、改革に取り組む姿勢を地元に示せたことは果たして有意義であった。


4:そして新たな往還電鉄へ

 それでも衰退への流れは止まらなかった。 歯止めの掛からない旅客の減少にに加え、長期の不況が追い打ちを掛けた。
 このままでは部分廃線やむなしとのムードが漂っていた。 そこに、県からある要請が舞い込んだのだ。
『県内一時間構想』 県内各地から県庁までの所要時間を一時間以内に抑えようという施策、これに往還電鉄を組み込みたいというのである。
 会社としてはすぐに飛びついた。 高速化工事の全額負担、車両購入資金の無利子貸付は、あまりにも魅力的だったからだ。
 資金難に喘ぐ地方ローカル私鉄は、間もなく高速バイパス路線に生まれ変わった。

 ここから往還電鉄の攻勢は始まった。
 パーク&ライド用駐車場整備、バスのホーム直接乗り入れ、自転車積載列車の運行、観光用快速電車の運行。
 県からの融資で浮いた資金を積極的に活用し、駅周辺整備や市民の利便を高める施策を次々と実行した。
 まだそれらは始まったばかりであり、結果はまだ見えない。 しかし、環境に優しい乗り物として鉄道が見直されている今、それらはきっと実を結ぶことだろう。

 県の動脈として九十余年。 往還の電車は今日も走り続けている。

 

続 き ま す ………

 


----- Yamaguchi-Okan Railways -----