〜第二十一幕〜 《東京大魔術計画》







 最初につばさの目に入ったのは、あたりに行き交う夥しい人の群だった。
 雑踏。いや、そんな生やさしいものではない。まるで初詣のときの浅草寺のようだ。呆然としながらも、つばさは通行人たちを必死に避けて回らねばならなかった。
「――な、何? どうなっちゃってるのっ!?」
 思わずあげた声が、ざわめきのなかに溶け消える。
 おかしくなってしまいそうだった。
 夢でも見ているのだろうか? 数多の人々が行き過ぎる街路。そのただ中に、つばさはいつの間にかひとりで立っていたのだ。
 もちろんのこと、知っている道ではなかった。いや、それどころか――いまの東京にこんな街並みがあるはずがない。
 セピア色の写真の中の風景のように、くすんだ色合いの建物の群れ。舗装されていない、乾いた土の路地。道の両側にびっしりと並んだのぼりの旗地だけが、砂埃をはらんだ風の中に赤や藍色の色彩をはためかせている。
 常設の建物が並ぶ街路でありながらどことなく、屋台が群れ集ったお祭りの縁日のような雰囲気だった。
「あ――赤城くんっ!」
 辺りを見まわしながら、つばさは仁矢を呼んだ。
 だが、いまのいままで後ろにいたはずの彼の姿を、雑踏の中に見出すことはできない。
 人々はつばさの姿など目にも入っていないかのように、笑いさざめきながら通りを行き交う。
 彼らのいでたちもまた、つばさが普段街で見かける服装とは大きくかけ離れていた。うまく言えないのだが――男の人の着たシャツも、女の人のまとったワンピースも、どこか古めかしい雰囲気なのだ。いや、それ以前に、道ゆく人の二、三人にひとりは着物をまとっているではないか。
「茜音さ〜んっ!! どこいっちゃったの〜っ!?」
 声を張り上げて、今度は茜音の名を呼んでみる。答えはない。
 通りの真ん中で、つばさは立ち尽くした。途方にくれるというのは、こういうときのためにある言葉に違いなかった。
 ぽかんと見上げた視線の先にその時、晴れた空を突き刺すようにそびえる影が映った。
 塔。まさに塔という表現がぴったりの、細長くのっぽな建物だ。半分くらいまで使った六角形の鉛筆を、まっすぐに立てた――そんな感じのシルエット。ほかに高い建物の見えないごみごみとした街中にあって、高さで浅草寺五重塔の倍ほどはあろうかという煉瓦作りの赤い影は、異様な存在感をもってそこに佇んでいた。
 あの建物を、つばさはどこかで目にしたことがあった。現実にではなく、何かの絵か写真の中で。
 なんだったろう、あれは――
 いや、今はそんなことを考えている場合じゃなくって。
「ほんと……どこなのっ? ここ――」
『――浅草さ。ちょうど「六区」と呼ばれている辺りのね』
「――わあああっ!」
 耳元で唐突に響いた茜音の声に、つばさは思わず悲鳴とともに跳びあがってしまった。
 慌てて今一度周りを見回すが、やはり茜音の姿は見えない。代わりに、くくっ――というさも楽しげな笑いが、どこからともなく耳に届いた。
『いや、すまない。驚かせるつもりはなかったんだ』
 嘘だっ!  とつばさは直感したが、口には出さなかった。それより先に、訊くことが山のようにあったからだ。
「あ――茜音さんっ? どこにいるのっ? どこなのここ? あ、浅草って――嘘だよ、浅草にこんなとこなんてないもんっ。だいたい、あたし廊下にいたのになんでこんなとこに立ってるの? 赤城くんは? 『茜桟敷』はっ?」
『……相変わらず、話を聞く前にまとめて質問をぶつけてくるね、君は』
 声とともに、茜音が肩をすくめるような気配が伝わってきた。
「だ、だってっ――」
『まあいいさ、訊かれたことには順に答えよう。
 君が今立っているのは、まぎれもない浅草だよ。ただし、今から八十年ほど前――大正十年の浅草六区ということになるがね』
「は……はちじゅうねんまえっ!?」
 すっとんきょうな声が、またもや思わず喉をついてしまう。
「え、あ、じゃあ、その――もしかして茜音さんの『力』って、タイムトラベルかなんかなのっ!?」
『……突飛な発想をするな、君は』
 苦笑混じりの声で、茜音が答える。
『あいにく、さしもの僕にも刻の流れを遡ることはできはしないさ。
 言い方を変えようかな。君は今、大正十年の浅草を模した《パノラマ》の中にいるんだ』
「……ぱのらま?」
 何度か耳にした言葉だった。あの老人と茜桟敷の三人が闘っているときに、応答のはしばしにのぼっていたような気がする。
『《奇術》の「力」のひとつだよ。自分の思うままの空間を作り出して、他者をその中に誘いこむことができる。《蛇使い》に襲われたときに、君も経験していたはずだがね』
「――――」
 茜音のその言葉に、先程の学校での出来事が脳裏に甦る。
 あの時――たしかにつばさは、いつもの校舎ではない不可思議な場所に迷い込んだ。存在していたはずの扉や通路が消えているのを目にした瞬間の驚きと恐怖は、思い出すと鳩尾のあたりがきゅっと縮み上がる。
 あれが――
 ――で……でも、『空間を作り出す』って……!
 信じられないことに行き当たるのももう五回や六回ではきかないけれど、それでもやっぱり、はいそうですかと納得して受け入れられるものではない。
『《蛇使い》の使ったものは、ほんの初歩的な《パノラマ》に過ぎないよ。少しばかり手をかければこんな風に、全く異質な世界を構築することもできる』
 つばさの困惑など気にかけた様子もなく、茜音は手軽な料理の作り方でも紹介するかのようにさらりと言葉を続ける。
『茜桟敷の扉をくぐる前に、君にはこの中で少々予備学習をしてもらおうと思ってね』
「予備学習?」
『歴史の勉強、というやつさ。
 いかなる教科書にも史料にもあらわれない、東京というこの街のもうひとつの歴史。「力」を有する奇術師たちが織り成した、あやかしの物語を――』
 見世物小屋のナレーションを髣髴とさせる淀みない口調で言うと、茜音はしばしの沈黙をおいた。
 雑踏が紡ぐざわめきが、波音のようにつばさを包み込む。
 見上げた視線の先には、そびえる煉瓦の高塔。その麓には数多の小屋やテントが、ぶつかり合わんばかりに軒を連ねている。
『……目の前に見えるあの塔、名前を知っているかい? つばさ君』
 不意に向けられた茜音の問いに、つばさは少し考えてから首を横に振った。
『この浅草に五年も住んでいるにしては、街の遍歴には疎いようだね。
 あの建物は、凌雲閣(りょううんかく)という。もっとも、通称である「浅草十二階」のほうが通りは良いかな。イギリスの水道技師バルトンによって設計され、明治二十三年に完成。大正期の浅草を象徴するとも言える建築だよ』
「あ――」
 仕草にはださねど、つばさは心の中でぽん、と手を打った。
 聞いたことがある名前だ。確か、叔父さんが何かの折に話して聞かせてくれた憶えがある。浅草の見世物小屋が全盛だった昔、街の中央にそびえていたという煉瓦の塔。どこかで見たことがあると思ったが――おそらくその時に見せてもらった浅草の古い写真の中に、あののっぽな建物は写りこんでいたのだ。
『十二階の下に広がった大正の浅草六区は、まさに奇術と見世物の聖地と言ってもよかった。火吹き男。玉乗り。蛇娘。剣舞。人体消失――ありとあらゆる不可思議なショウが見世物小屋の天幕の中に繰り広げられ、観客達を日常とは異なる空間へと誘ったんだ。
 ある意味浅草はこの《パノラマ》と同じ、東京という都市の片隅に花開いた、小さな異世界だったのかもしれない』
 茜音の声は、どこか懐かしげな響きを帯びていた。八十年の刻を隔てた大正の浅草を、まるで知ってでもいるかのように。
『人々はあの十二階を目印として、われ先にこの街を訪れた。
 大正というのは、東京というこの都市が明治維新以来の成長にひとまずの区切りをつけ、良く言えば安定……悪く言えば停滞の中にあった時期でね。遮二無二発展に向けてひた走ってきた時代の流れが行くべき先を見失い、いったい何処へ向かうのか――そんな淡くぼんやりとした惑いを抱えた人々の心に、奇術のもたらす不可思議な刺激は急速に染みわたっていったんだ。
 不安と憧憬、畏怖と好奇心。ありとあらゆる感情を呑みこんで、浅草という渦はみるみる膨れあがる。来るものは拒まない、なんでもありの異界……そんなこの街の性質に惹かれて群れ集ったのは、市井の民衆のみではなかった』
 わずかに声のトーンを落として言葉を閉めると、茜音は短い沈黙を置いた。
 つばさは思わず、どんぐりまなこを疑問符で満たして幻の空を見上げる。その反応を待っていたかのように、茜音の声は続いた。
『大正の浅草はね、まさにうってつけだったんだよ。生まれながらにして常人と異なる「力」を持った者たちが、棲家として群れ集うには』
「――――!」
『……ときに、つばさ君』
 唐突に『力』というキーワードを聞かされ、思わずちいさく息を呑むつばさ。そんな驚愕には相変わらず構いもなしに、茜音は言葉の先を転じる。
『君は君の叔父が運営する「駒型座」で、舞台にあがっている。だがその舞台上で軽業を披露するにあたっては、「力」が過度に発揮されないように慎重に制御を行っているね?』
「え? ……う、うんっ」
 意図の見えない問いに面食らいながらも、つばさはうなずく。
『それは、何故にだい?』
「だ――だってっ、思いっきりやったら見てるひとに『力』のことバレちゃうもんっ! バレちゃったら――」
 ――喋っちゃダメなんだって。駒形さん、お化けだからって……
 記憶の断片が疼きとなって胸をよぎり、思わず途中で喉が詰まった。
『そう。君が観客たちの常識の中で高度な業を発揮しているうちは、彼らは君に喝采をおくるだろう。けれども、もしも君の軽業がその範囲を大きく越えてしまったならば――観客達はまず驚愕し、恐れを抱き、君を奇異の目で見やり……最後には、迫害するようになるだろうね』
 中断した言葉の先を、茜音の声が引き継ぐ。残酷なくらい冷静な口調で。
『だが、大正期の浅草にはそれがなかった。見世物小屋の中では、どれほど驚嘆に値する「力」が振るわれても、観客達はそれを受け入れ、拍手を惜しまなかったんだ。
 それがかつて、この浅草という街が持っていた魔力だったのだろうね。ここには、「異質」などという概念がそもそも存在しなかった。異質なものたちが寄り集まって作られた空間だったからね、あの見世物小屋の群は』
「――――」
 茜音の言葉に、つばさはあらためてまじまじと辺りを見回した。
 色あせた風景の中で、風にはためく無数ののぼり。くっきりと染めあげられた『人間砲台』『怪奇 蝙蝠娘』等の文字は、おそらくメインの演目なのだろう。そののぼりの森の下で、無秩序に軒を並べる小屋の群。そして、通りを行き交う人、人、人――
 どんな『力』を人の目に晒しても、迫害されることなく受け入れられる街。そんな茜音の言葉がすんなりと信じられる、ありとあらゆるものをごったにして煮込んだような活力が、あたりの空気に満ち満ちているような気がした。
 もしも自分がこの時代の浅草に生まれていたら、やっぱり舞台の上で思うがままに『力』を使うことができたのだろうか。誰の目も気にすることなく、縦横無尽に舞い踊ることができたのだろうか。
 いいなあ――と、そう思っている自分にふと気づいて、つばさは震えるようにかぶりを振った。
 この『力』のために千絵ちゃんをあんな目にあわせたばかりなのに。こんな『力』なんていらないって、さっき思ったばかりなのに。あたしはやっぱり心のどこかで憧れているのだろうか。この『力』を、思うさまに振るえる場所に――
『……「力」を有する者たちは、次々と集ったんだ。不可思議なものを排斥しながら近代化を進めていく帝都東京。その直中に築かれた、つかのまの楽園にね』
 自分の奥に沈み込みそうになるつばさを我に返したのは、涼やかに話の先を継ぐ茜音の声だった。
『彼らは奇術師として、いつしかこの街に溶け込んでいった。
 「力」を持つ者たちにとって、それは唯一といっていい幸せな時代だったよ。かれら奇術師たちの活躍は浅草に開いた見世物の華にさらなる彩りを添え、この街はよりいっそう大きな腕(かいな)をひろげて彼らを庇護した。
 そんな時間がいつまでも続いていたなら、良かったのだけれどね。「かくして奇術師達は、この浅草で末永く幸福に暮らしました」……やれやれ、ところが現実というやつは、なかなかそういった御伽話めいた大団円を許してはくれないものらしい』
 ことさら皮肉めいた茜音の口調の中に、しかしつばさは別の色合いを感じていた。彼女の声が初めて帯びた、切なげな哀しみの響きを。
『奇術師達とこの街の蜜月は、わずか数年で終わりを告げた。街が彼らを拒んだのではないよ。綻びは、奇術師達の内側から生じたんだ』
「――うわっ」
 その刹那、つばさは思わず驚きの声をあげた。
 一瞬のうちに、周囲の風景が変わったのだ。
 あれほど辺りに満ち満ちていた人々の姿が、一瞬にして煙のように溶け消えていた。
 無人となった街路を染めあげるのは、色濃い夕闇。今の今までざわめきに覆われていただけに、物音ひとつしない黄昏の光景は、いっそう寂しげで――どこか不安を覚えずにはいられなかった。
『奇術の「力」を備えているとはいえ、彼らも人間でね。人間というものは恵まれた環境の中にしばらく置かれると、恵まれていること自体を忘れてしまうものなのさ。
 奇術師達の中にはいつしか、浅草の――見世物小屋の中だけに限られた楽園に、満足しきれなくなった者達が現れた』
 朱と黒の影絵さながらの街角に、茜音の声だけが朗々と響き渡る。
 見えざるその姿を求めて夕空にまなざしを移し――つばさは思わず息を呑んだ。
 人が、佇んでいたのだ。黄昏を切り抜いて聳える浅草十二階。その、煉瓦の塔の頂上に。
 茜音ではない。もっともっと背の高い、真っ黒なマントを夕風にはためかせた影。絵本に登場する、黒衣の死神を髣髴とさせるような。
『彼らは、帝都全てをこの浅草と同じ色に塗り替えようと企んだんだ。異質なものと日常とが渾然と溶けあった、まさに見世物小屋の天幕の中そのものの世界にね』
 塔の上の怪人が、ゆっくりと地上に顔を向けた。
 容貌は――判らない。何故なら、その顔は石膏のように白い仮面で覆われていたからだ。
 逆三日月型の両目と、耳まで裂けた口。仮面に穿たれた三つの孔から、その主の表情をうかがうことは無論できはしない。
『かくして、浅草に集った奇術師の中でもことさらに強大な「力」を持った者たちが、ひとつの「計画」を造りあげた。その名を――』
 ばさり――
 風切る音とともに、怪人のマントが紅い闇に翻った。

『――《東京大魔術計画》、という』

「とうきょう……だいまじゅつ?」
 その言葉を、つばさは半ば呆然と呟き返した。
 ひどく大仰で、アナクロな名前だった。だがそれでいて、理由のない不安と高揚とを同時に感じてしまうのは――不可思議なこの空間の中で聞いているからなのだろうか?
『そう。帝都東京の全てを、奇術で埋め尽くそうという企みさ』
「そ……それって、浅草だけじゃなくって、東京中で公演をやるってこと? それならうちの叔父さんも、いつかはそうしたいものだなあっていつも言って――」
『残念ながら、そんなに穏便なものじゃないよ』
 緊張をごまかしたつばさの軽口を、茜音は苦笑混じりの声で遮った。
『それまでの常識と秩序が残らず破壊された、異質なものが横行することが当たり前の空間に都市の全てを塗り替える――簡単に言えば、奇術の「力」をもって、東京を大混乱の坩堝に叩き込もうということだよ。
異質な「力」を持つ者たちがいて、自分達はその影に脅かされながら日々を送らねばならない。そんな怯えを、この街の全ての人間が心の隅に抱いて生きねばならなくなるくらいにね』
「そ、それって――」
 つばさは口ごもる。茜音の言葉はあまりにも途方がなさすぎて、頭の中にうまく思い描くことができなかった。
 常識と秩序を残らず破壊する? 東京を大混乱の坩堝に叩き込む? そんな、そんなこと――
 思わず見上げた塔の上に、怪人は変わらず佇んでいた。漆黒のマントを、黄昏の風にたなびかせて。白い仮面は落日の光を受けて、血に浸したような紅を帯びる。
 そして――
「――――!!」
 つばさはもはや幾度目になるかも判らない、声なき叫びをあげた。
 いつのまにか、人影は黒衣の仮面だけではなくなっていたのだ。その両側に、長い髪を風に靡かせた華奢な少女と思しき影達が佇んでいる。さらにその外側にも、数人の人影が――
 十二階の上だけではない。ふと見回してみれば、夕闇を濃くした街の随所に、数多の影が見て取れた。見世物小屋の屋根の上に。広場の木の陰に。路地の角に。
 シルクハットを被った男もいる。ドレスを纏った女もいる。昏さゆえか、顔をはっきりと目にすることはできはしないが。
『奇術師たちはこの浅草に、計画を遂行するための結社を造りあげた。
もちろん、彼らのやり方に異を唱え、それを止めようとする者たちも少なくはなかったよ。だが先程も言った通り、《東京大魔術計画》は奇術師の中でも強大な「力」を有する者達によって発案されたものだったんだ。
……しばしの諍いののち、計画に反意を抱く者達は命を落とし、或いは自らこの浅草を去っていった』
 ――い、命を落とすって……!
 つばさの背中を、震えが駆け抜けた。それは、殺されたっていうこと?
 怯えをはらんだ内心の疑問に答えることはむろんなく、茜音は言葉を続ける。
『もはや、彼らの動きを阻害するものは何もなかった。
《東京大魔術計画》は――その第一段階は実行に移されたんだ』
「え?――そんなっ、だって――」
『……何だい? つばさ君』
 しどろもどろに口をはさんだつばさに、茜音の声が訊ねた。
「し、知らないよあたしっ。そんな、東京をめちゃくちゃにしちゃうみたいなことがあったなんて、聞いたこと――」
『やれやれ。表面に浮かびあがって見えるものだけが真実とは限らないと、さっきも言ったはずだよ、僕は』
「――――」
『奇術師たちといえども、いちどにこの大都市の秩序を転覆できるとは思ってはいなかったからね。計画は、直接街の人間達の目には触れない場所で静かに始まったんだ。
 世の常識では解き明かすことができない怪事件を次々に引き起こし、少しずつ東京の人間達の心に不安と動揺の種を植えつける。この街には自分達の知らない何物かが潜み、自分達の知りえない力を振るっているのではないか――そんな疑念を、うっすらと世間に広めてゆく。それが計画の第一段階だった。
 当時の新聞に端から端まで目を通せば、君でも気が付くはずさ。原因不明の失踪事件。夜の帝都を駆ける亡霊の噂。立ち入った者を捕らえて帰さぬ郊外の幽霊屋敷。そして、姿なき怪盗怪人の跳梁跋扈。大正の後期というこの時代が、いかに不可思議で怪奇なる数々の事件に彩られていたことか――
 もっとも、あまりに不可解すぎるがゆえに、新聞にも雑誌にも載りはしなかった事件もまた数知れないがね』
 夕闇に覆われた街に、茜音の声だけが響いてゆく。
 佇むシルエットたちは、まんじりたりとも動かない。
 それが茜音の作り出した幻の光景だとわかっていても――つばさは制服の胸のリボンのあたりをきゅっと握りしめ、唾を飲み込んだ。彼らの視線の全てがこちらをうかがっているような、そんな気がして。
『計画の第一段階は、成功を収めたといっていいだろう。大正という時代の後期、この東京に住まう人々の間には、形を持たざる不安がゆっくりと広がっていったんだ。自分達を取り巻く空気への、言い様のない不気味さのようなものがね。あの一時期、都市に広がった爛熟と頽廃の文化は、その不気味さの上に築かれたものと言っても過言ではないが――ともあれ、すべては奇術師たちが醸し出した「演出」だったのさ。
 首魁たる奇術師たちは、機が熟しつつあるのを確かに実感していただろうね。そのままことが進めば、《東京大魔術計画》は次の段階に入るはずだった。
 だが――そんな時に、「あれ」は起こったんだ』
「……『あれ』?」
 つばさが思わず訊ね返した――その刹那だった。
 ずぅ……ん!
 地の底から轟くような轟音とともに、足元を鈍い衝撃が揺るがしたのは。
「きゃあぁっ!」
 不意をつかれたこともあって、つばさは足をとられて倒れ伏してしまった。
 混乱しながらも、なんとか四つん這いになって身を起こす。顔をあげたとき、眼に映る風景はもはや、先程までの黄昏の浅草ではなかった。
 ――な……なにこれっ!?
 紅に染まった街路。だがそれは、夕陽のためなどではない。
 炎だ。街が、群れ集う建物が燃えている。赤々とした火炎と、もうもうたる煙を吹き上げて。
 いや、それはもはや建物とは言えなかった。路の両側に並ぶのは、巨人が足で踏みつけて回ったかのような、崩れた瓦礫の山だ。
 黒煙がたなびく空に、浅草十二階の影が映った。中ほどでぽっきりと折れ崩れた、無残なその姿が。
『大正十三年九月一日、午前十一時五十八分――』
「か――関東大震災っ!」
『ほう、さすがにこればかりは知っていたね』
 思わず叫んだつばさに、茜音がいささか馬鹿にしたような呟きを被せた。
 知らないはずがない。学校でも習ったし、お母さんにもおばあちゃんにも、それから叔父さんにも話を聞いたことがある。
 なんでも、おばあちゃんの父親――つばさから見れば、ひいおじいちゃんということになるのだろう――は、この地震で亡くなったのだそうだ。生まれてまだ間もなかったおばあちゃんが北陸に居を移すことになったのも、炎により家を失ったからであるという。
『……炎と騒乱に彩られた数日が過ぎ去ったとき、帝都東京は完膚なきまでに潰え去っていた。奇術師達が望んでいた破壊と混乱は、現実のものとなったんだ――皮肉なことに、彼ら自身をも巻き込んでね。
 何も残りはしなかったよ。計画が醸し出した形なき不安など、現実の災いを前にしては霞のように消え去るほかなかった』
 また――つばさの周りで、風景が変化してゆく。急速に。
 炎と煙が止み、荒涼たる瓦礫の園となった浅草。その焼跡を数多の人間が、ちょうど映画の早回しフィルムのようにちゃかちゃかと往来する。またたくまに通りの両側には仮建ての小屋が立ち並び、それはすぐにしっかりとした建物にとって替わられた。
 呆然と視線を移した前方の空に、もはやあの十二階の影は無い。
『帝都の復興は驚くほどに早かったよ。一年としないうちに新たな街区が設計され、7年後の昭和5年には盛大なる帝都復興祭を催すに至る。幾度かにわたって焼失の憂き目を見てきたこの街だからこその、再生の力というものなのかもしれないね。
 けれども――そうして新たに織りなおされたこの東京という街、浅草という街に、もはや奇術師達の住まう場所は無くなっていたんだ』
「え? でも――」
『何だい? つばさ君』
「叔父さんが子供だった頃、まだ見世物小屋とか奇術小屋ってたくさん残ってたって言ってたよ?」
『形の上では、ね。だが、人々が見世物小屋に向ける目も、奇術小屋に求めるものも、以前とはまるで違ったものになってしまったんだよ』
 気のせいだろうか。涼しげな口調の中にわずかな寂寥の色を滲ませて、茜音の声は呟いた。
『奇術は、時代の淀みの上にその華を咲かせる。都市が道標を失い、人々が惑いを覚えた大正という一時代こそ、奇術師達にとっては帰らぬ楽園だったのさ。
 震災からの復興を終えて動き始めたこの東京は、もはや確固とした行き先を持っていた。戦争という愚かしい方向に、ではあったがね。
 人々はもはや見世物小屋の天幕の中の世界に、不可思議なものとしての魅力を求めはしなくなった。見世物はあくまでも、世間の常識の中でのみ公演を行うことを許された見世物に過ぎなくなってしまったわけだ。やがてはそれすらも、帝都を覆う戦争の影の中に呑まれ、消えていった』
 周囲の風景が、ゆっくりとフェードアウトして消えていく。黄昏が夜に変わった――何とはなしに、つばさはそんな印象を受けた。
 無明の闇の中にただ、茜音の声のみが響く。
『大戦が終わっても、奇術師達の出番が回ってくることは二度と再びありはしなかった。再度の復興に、経済成長。時代は確かな道標を持っていたし――何より、都市に住まう多くの人々の胸からは、未知なるものへの畏怖も憧憬も消え去っていたからね。奇術妖術という言葉も、いまやある種の懐かしさをもって懐古される始末だ。
 かつてこの街の黄昏を支配した奇術師達も、《東京大魔術計画》も、歴史の陰にゆっくりとうずもれ、風化して消えていく――
 ……そう、そのはずだったんだ。「彼ら」が再び、この東京に姿を現しさえしなければ』
「――彼ら?」
 つばさのその声に応えるように、再び闇の中にぽうっ……と光が灯った。
 先程までのような、黄昏の色ではない。吸い込まれてしまいそうに深い、海の底を思わせるような蒼い光。
 その光を背負って、数人の人影がつばさの周囲に浮かび上がっていた。先程、大正の街並みの中に立っていた怪人達と同じ――顔をうかがうことはできないシルエット。
『《東京大魔術計画》――その遺志を現代に継がんとする、奇術師達さ』
「――――!!」
 声を失って、つばさは周囲を見つめる。蒼い薄闇の中に、佇む影たちを。
『彼らは再び、この東京に集いつつある。あの時、未曾有の震災という抗いがたい力によって未完に終わった計画を、八十年の刻を隔てていまこそ現実のものとするために。混沌に彩られた奇術師達の楽園を、この都市の上に作り上げるためにね』
「ちょ、ちょっと待ってよっ」
 つばさは思わず声をあげた。
『何だい?』
「茜音さん、さっき言ったばかりじゃんっ。関東大震災の前と、そのあとの東京は違うって。よくわかんないけど、だから奇術師のひとたちって東京からいなくなっちゃったんでしょ? だったら、今になって戻ってきて何かやったって、うまく行くはずないじゃんっ」
『……そう。時代とこの都市は、確かに変わった。いまや、常識というものの範疇からはみ出たものを排除して歯車を廻し続けている。あの頃とは違ってね』
 つばさの反論にも、茜音の声はまったく動じた様子を見せない。
『ゆえに、《東京大魔術計画》もまた変わらざるをえない。より先鋭化された、より過激な方向に。
 奇術師達にしてみれば、あの震災のあとに生まれ変わったこの東京は、間違った東京なんだ。そして、戦災という再度の破壊と再生においても、その誤りは修正されなかった。
 だから――ね。壊すんだよ、もういちど。市街も、そこに住まう人間の生活も、平穏も、常識も。この都市を構成するすべての要素を。そうして、荒涼たる瓦礫の園となった東京を、あらたに紡ぎ直すのさ。今度こそ、日常と不可思議なものとが混然と入り乱れた街に。かつては幻と消えた、奇術師達の楽園にね』
 その口調は、微かな熱を帯びていた。まるで彼女自身が、東京が混沌の海に沈むことを願っているかのように。
「め……めちゃくちゃだよ、そんなの――そんなこと――」
『そんなこと、できるわけがない。この国には警察も存在するし、都市の治安はそうそう簡単に乱れるものではない――そう思っているのなら、それは大きな間違いだよ』
 静かな、しかし鋭い声で茜音は言葉を続ける。
『つい先日、隅田川の川岸で起こった事件――高校生集団昏倒事件などといってずいぶんと話題になっているようだね。察しはついていることと思うが、あれは君を襲ったあの《蛇使い》が片手間に起こしたものだ。
 《蛇使い》とて、新たに東京に集った奇術師達の中ではさほど高位な「力」の持ち主じゃない。それでも、警察やマスコミは未だもって事件解決の糸口にすらたどり着いてはいないな。彼らは所詮、自らが信奉する常識の範疇の外に立つもののことなど、考えることはできないのさ。
 今はまだ、原因不明の怪事件として人々の口にのぼっているだけだろう。だが、こうしたことが幾つも幾つも、無数に重なっていったらどうなると思う? 誰がいつ犠牲になるかわからない。次に見えざる毒牙にかかるのは自分かもしれない。しかも肝心の警察は、それに立ち向かう術を全く持たないとしたら?
現代のこの都市の住民達は、過度な信頼を寄せすぎているんだ。自らの常識にも、街の治安にも。それらが実は、湖上の薄氷にも似た脆いものだということを余りにも知らない。だからこそ――それらが脅かされたときの動揺は激しいものになる。
奇術師達は絶妙のタイミングで次々と不可思議な事件を起こし、不安を醸し出してゆくだろうね。何度でも何度でも、この街の秩序が自壊を始めるまで。それがいわば、新たなる《東京大魔術計画》の第一段階なんだ』
「――――」
 つばさは呆然と、その場に立ち尽くした。蒼い光を背負って佇む影――奇術師達のシルエットのただ中に。
 両膝の裏のあたりが、細かに震えている。
 これまで地面だと思っていた足元がぐにゃりと歪んで溶け落ちていくかのような、そんな感覚。
 まだ、信じられなかった。受け入れることができなかった。五年もの間自分が暮らしてきたこの街。この都市の水面下でそんな途方もない、奇怪な企みが蠢いているなんて。
 信じられない――けれど。
『君が戸惑うのも無理はないと思う。だが、これは事実だよ』
 心の揺らぎを見透かしたように、茜音は静かな、力ある声で言葉を重ねる。
「…………う、うんっ」
 数秒の沈黙をおいて、つばさはこくりと頷いた。
 茜音の話は確かに、今まで自分が暮らしてきた日常からはあまりにもかけ離れすぎている。これを聞いたのが三日前であったならば、作り話としか思えなかっただろう。
 だが、昨日今日に自分が体験したことは夢でも幻でも、作り話でもない。
 それに、いまこの時も千絵が病院のベッドで眠り続けていることも――何かの冗談であるならば、どんなに良いかしれないけれど。
 たぶん、あたしは――あたしと千絵ちゃんは、触ってしまったのだ。日常の裏側にあるものに。茜音の言う、この街の水面下で蠢くものに。
 だとすれば。
 茜音の言葉を事実として受け止めないかぎり、先へは進まないのだ。
 千絵ちゃんを助けられるのは、病院でも警察でもない――《蛇使い》と同じく、この街の水面の下に身を置く茜音。それに、彼女に率いられた茜桟敷のほかにおりはしないのだから。
「……あ、茜音さんたちは――」
 つばさは口を開いた。緊張で、思わず声が上ずってしまう。
「――茜桟敷は、《計画》っていうのを、止めようとしているの?
 昨日、公園で言ってたよね。『この街の平和を守るために闘っている』って」
『……そういうストレートな言い方をされると、いささかこそばゆいな』
 ひょいと肩を竦めるような気配とともに、茜音の声は答えた。
『まあ、少なくとも僕は《計画》には抗する立場をとっているよ。今のこの東京を肯定するつもりも毛頭ないが、さりとて気に入らないからぶち壊そうというのでは子供の癇癪と変わらないからね。
 奇術師達が新たな《東京大魔術計画》を進めるのを阻止するために、僕が独自に『力』を持った人間をスカウトし、結成した組織。それが茜桟敷というわけさ』
 茜音のその言葉と同時に、周囲の蒼い光がすうっ……と薄らいで消える。つばさの周りは先程と同じ、全き闇に包まれた。
『さて――ひとまずは、こんなところかな』
「――え?」

「僕の側の札は、これであらかた君の前に晒したということさ。次は君がカードを切る番だよ、つばさ君」

 茜音のその声は、これまでのようなどこからともなく聞こえてくるものではなく――
 ごく近くで響いた。そう、立ち尽くすつばさの、ちょうど真後ろから。
 反射的に振り向いて、そのままつばさはびくんっ! と固まってしまう。
 ほんの数歩先。闇の中にぽつんと浮かび上がるように、革張りの一人がけソファーがそこに置かれていた。
 ソファーには主(あるじ)がいる。足を組み、肘掛に片肘をつき、けだるげに傾けた頬を手の甲で支えた男装の少女が。
「あ……茜音さんっ」
 鼓動が早まった胸を手のひらで押さえながら、つばさは彼女を睨んだ。
「も、もうちょっと普通にでてきてよっ! どうしてそうやっていつもひとのことおどろかすのっ!?」
「――趣味だよ」
 身もふたもない一言で、茜音はつばさの抗議の声に報いる。
「まあ、そんなことはともかくとして――簡単にではあるが、これで僕の授業は終わりさ。
 そこで、だ。
 及第の試験の代わりに、いまいちど君の意思を確認しておきたいと思う」
「意思?」
「『力』を持って生まれてきた者としての……ひとりの奇術師としての君の意思だ、駒形つばさ君」
 深く澄んだ――けれども、奥にある感情をかけらたりともうかがわせない。そんな茜音の瞳が、正面からつばさをとらえた。
 彼女の唇がたたえるのは、淡い微笑みだ。にもかかわらず、顔をあわせているだけで射抜かれるような威圧を感じる。だがそれでいて、瞳を逸らすこともまたできはしない。
「昨日、僕は君をスカウトしに来たと言ったね。それは今も変わらない。《計画》の阻止のためには、ひとりでも多くの『力』を持つ人間が必要だからね。
 だが、己の『力』を何のために使うかは、その主(あるじ)たる君が決めることだ」
 茜音のその言葉に、つばさはぴくり、と肩を震わせた。
 『力』を何のために使うか。そんなことは今まで、一度も考えたことなどなかった。幼い頃から、つばさにとって『力』は使うものなどではなくって――ただひたすらに、隠さねばならないものだったから。
 惑いをよそに、闇の中に茜音の声は響く。
「正直な話、いまこの東京に身を置く奇術師たちのほとんどは、《東京大魔術計画》の側に組する立場にある。それに比して、茜桟敷は僕を含めて四人。圧倒的に劣勢なうえ、守る側として後手に回るしかない。
 茜桟敷に加わるかどうかを問わず、僕らと行動をともにして今回の事件を追うことは、すなわち数多の奇術師達を敵に回すということでもある。
 だから――決断に必要な知識を君が得た今、あらためて訊ねたいんだ。
 駒形つばさ君。君に、この東京の存亡を賭けた戦いの中に身を置く意思はあるかい?」
 静かなまなざしとともに、問いを向けられて――つばさは、瞬時に答えることはできなかった。
 生まれてからずっと『力』とともに過ごしながら。自分の『力』というものと正面から向かい合うのはこれが初めてなのではないか。そんな気さえする。まして、『力』を持った人間として自分が進む道を選ばなければならない、などという局面は。
 言葉がまったく出てこない。そんな自分がなんだか恥ずかしくて、つばさはかあっと頬が火照るのを感じた。
 茜音の瞳は、じっとつばさの目を見据えている。待っているのだ。答えを。おそらくは、いつまででも。
「……ほんと、言うと……まだ……よくわかんないよ」
 喉の奥から声を搾り出すように、つばさは口を開く。
「その、《計画》っていうのが東京をめちゃくちゃにしちゃおうっていうんだったら、もちろん止めなくっちゃいけないと思うんだけど……街を守るために戦うっていうのがどういうことなのかとか、あたしにもできるのかとか、えっと、その、実感できないっていうか――」
 ものすごく失礼なことを口にしていると、自分でも思う。茜音たちはこの東京を守るために、あたしが学校で見たような戦いを重ねているのに。
 それでも――嘘はつけなかった。わからないままで、てきとうな言葉で答えちゃいけない気がした。
「あたしがここに来たのは、千絵ちゃんを――あたしの友達を助けたいって思ったからで……ごめんっ、怒られるかもしれないけど、今はほんとうにそれだけなのっ」
 《東京大魔術計画》のことも、奇術師たちのことも、この街を守るための戦いのことも。いまのつばさには、考えることなどできはしなかった。
 『力』を持つ者として、自分にやらなくてはならないことがあるとすれば――何よりもまず、その『力』のためにあんな目にあわせてしまった千絵を救うことだった。この街を守るための戦いに身を置くかどうかなんて、その前に結論を出すなんてできない。
「茜音さんたちがもし千絵ちゃんを助けてくれるんだったら、なんでもするよっ。もしその代わりに茜桟敷に入らなくっちゃダメだっていうんならそうするし、《蛇使い》のおじいさんみたいなひとたちと戦わなくっちゃいけないんでも――あ、あたしなんかじゃ役に立たないかもしれないけど――
 だ、だから――あのっ、だからっ――」
 そこまで言ったところで、つばさは声を詰まらせてしまう。必死に話そうとすればするほど、惨めなほどに言葉が出てこなくなった。
 ダメだ。めちゃめちゃだ。茜音が訊いたことの、答えにも何にもなっていないではないか。
 それ以上まなざしを合わせていることができずに、つばさは俯いて下唇を噛んだ。押しつぶされてしまいそうな重い沈黙が、二人の間に生じる。
 ――お……怒っちゃったかな。怒るよね。自分勝手もいいところだもん、あたし――
 それとも、怒るを通り越して呆れ返られてしまったのだろうか。茜音は東京全体の運命を賭けて戦っているというのに、自分は友達ひとりを助けること以外何も考えてはいないのだ。
 肩を縮こませて、つばさは待った。失望の、あるいは冷ややかな侮蔑の言葉が茜音の口から発される、そのときを。
 だが――
「ふ……ふふっ――」
 沈黙を破って耳に届いたのは、つばさが予想だにしなかった声だった。
 怒りどころか、むしろ楽しげな響きすら宿した涼やかな笑い。
「――――?」
 呆けたような視線を向けた先には、茜音が変わらずソファーに腰を沈めていた。細工物のように端正なその顔に、謎めいた微笑を刻んで。
「なかなかにいい答えだ。気に入ったよ、つばさ君」
「え――えええっ!?」
 茜音の唇が紡いだその言葉に、つばさはすっとんきょうな声をあげて後ずさってしまった。
 いま、茜音さん何て言ったの? いい答え? こんなしどろもどろで、要領も得ていなくって、身勝手のお手本みたいなのが?
 思わずまじまじと、茜音の目を見据えてしまう。皮肉を言われているか、それともからかわれているとしか――
「いやいや、からかっているわけではないよ」
 つばさの心を見透かしたように、茜音は軽く首を振った。
「『あたしもこの東京を守るために戦います』なんて答えは、はなから期待してはいないさ。いきなり先程のような問いを突きつけられては、戸惑って当然だからね。
 だが、内心では戸惑っているにしても普通はもう少し言葉を繕うものなんだが――ふふっ。つばさ君、君はとことん馬鹿正直な人間のようだ」
「…………」
 やっぱり、どう聞いてもからかわれているような気がする。
「……いや、失敬。
 馬鹿正直ゆえに、確信を抱けるわけさ。君が友人を救いたいと思う心は、少なくとも紛い物ではないとね。その想いがある限り、君は己の『力』を揮うことも、危険に身を晒すことも厭いはするまい?
 拠り所のない使命感の類より、僕にとっては信頼するに足るというものだよ。君の側に望みがあればこそ、契約は強固なものになる」
「……はあ」
 朗々と語る茜音を、つばさは呆然と見ているしかない。
 気に入ってもらえたというのであれば、喜ぶべきなのかもしれないけれども――目の前のこの少女が考えていることは、やっぱりなんだかよくわからなかった。
 こちらの困惑には相変わらず気をかけた様子もなく、茜音は組んでいた足を解き、優雅な仕種で前髪をかきあげる。切れ長な二重瞼の瞳が、再びつばさを見据えた。
「現時点において、僕らの利害関係は一致しているわけだ。君は君の友人を救うために、僕らの力を借りる。僕らは《蛇使い》とその背後にあるであろう結社を追うために、君の力を借りる。
 当然のことながら、ここから先は君も危険の中に身を置いてもらうことになるだろう。先程の仁矢の言葉ではないが、もし後悔することになっても後戻りはきかないよ。それで構わないかい?」
「う――うんっ!」
 ぼやけていた表情をきっと引き締めると、つばさは思いっきり威勢よく頷いた。千絵ちゃんを助けられるんだったら、どんなことになっても後悔なんてするもんか。
「――宜しい」
 茜音の秀麗な顔に、笑みが浮かぶ。唇の片側だけで刻まれた、見ようによってはどこか禍々しい印象を与える――そんな微笑が。
「さて、そろそろ立ったままではなんだろう。かけたまえ、君の後ろの椅子に」
「え? ――うわわわっ!」
 茜音の声に背後を振り返って、つばさはまたもや驚きの声をあげてしまった。
 自分のすぐ後ろ。そのまま腰を下ろせば座れる場所に、一人がけのソファーが置いてあったのだ。闇の中、ぽつねんと浮かび上がるようにして。
「い――」
 いつ置いたのこんなのっ。さっきまでなかったのに――叫びそうになった言葉を、つばさは途中で飲み込んだ。この空間の中で目の前のこの少女に対してそういう問いを投げるのは、なんだかもはや意味がないような気がしたのだ。
 ちょうど対面の位置に座した茜音の顔を見つめながら、つばさはおそるおそる、革張りのソファーに腰を沈める。
 その、刹那だった。
 ……かしゃっ。
 カメラのシャッターを切るような音が、耳に届いたのは。
 闇に覆われていた空間に、淡い明かりが灯る。
「――――!」
 つばさは絶句した。驚愕のあまり、今度ばかりは声すらもでてはこなかった。
 対面には、茜音がソファーに腰を下ろしている。硬直したつばさを、可笑しくてたまらないといった面持ちで眺めながら。
 茜音とつばさの間には、長方形の机がひとつ。その側面に置かれた長めのソファーには、三人の人間が座っていた。
 つばさから見て右側に、変わらず不機嫌そうに口元を結んだ赤城 仁矢。
 そして左側には、眼鏡をかけた長い髪の少女と、ひょろりと背の高い、伸びた前髪で瞳が隠れた少年。言うまでもなく、先程学校で出会った茜桟敷のふたりだ。確か、睦さんと、若槻先輩と呼ばれていた――
 彼らの視線を集めたまま、つばさは固まったまま動けなかった。授業中にうたた寝をして、目が醒めたら知らない場所にいたとしたら、きっとこんな気分だろう。
 呆然と見上げた天井で、金色の大きなプロペラ――ファンというのだろうか――が、ゆっくりと回っている。
 ほの暗い室内を照らすのは、天井と壁に取り付けられたいくつかの洋燈。その明かりを受けて、棚に並んだ古めかしい道具の数々が陰影を刻む。
 オレンジの明かりに浮かびあがる、謎めいた小さな一室――
 正面に視線を戻すと、笑みを湛えた茜音と目が合った。彼女は自らの胸の前に右の手のひらをあてると、恭しい仕種でつばさに一礼を送る。
「――ようこそ茜桟敷へ。歓迎するよ、駒形 つばさ君」

第二十二幕に続く




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