〜 第三十五幕 《蛇使い》の正体 〜



 パァン! パァン!
 茜音の手元で、古めかしい拳銃が再び咆哮をあげた。
 まるでクラッカーでも打ち鳴らしているかのような、乾いた破裂音。だがそのたびに、《蛇使い》の胸には確実に小さな孔が爆ぜ開いていく。苦痛に耐えかねてか、それとも弾丸の勢いに衝(つ)かれてか、黒衣の老人はくの字に身体を折り曲げた。
「「茜音さんっ!」」
 睦がようやく発した声は、はからずも京一郎のそれと重なった。さすがの京一郎も、茜音がいきなり銃を撃つとは思っていなかったのだろう。
「――ん?」
 こともなげな声とともに、茜音がこちらを振り返る。
 いつもと変わらない、澄ました表情。銃口からたちのぼる一筋の煙に、彼女はふうと息を吹きかけた。
 睦は依然として、声を発することができない。呆然としたまま、部屋の向こうでうずくまる老人を見据えるばかりだ。
 と――茜音がふと、訝しげに眉をひそめた。
 しかしそれも一瞬のこと。彼女の口元には、涼しげな――いまのこの状況においては冷酷にすら見える微笑が浮かぶ。
「おやおや、つくづく呆れたものだね。さっき言ってあげたというのに、君たちはまだ気付いていないのかい?」
「え――?」
 と、睦が思わず目をしばたかせたその時。
「――く――」
 薄闇の向こうから、微かな声が聞こえてきた。
「――!」
 睦の胸の中で、心音が跳ね上がる。
 しわがれた声色の主は、問うまでもなかった。
 身を屈めたままの、黒衣の老人。その背中が、細かに震えている。
「く――くくくく――っ――」
 苦痛の叫びなどではなく。怨嗟の呻きなどでもなく。深き淵の底から響いてくるかのようなこの声は、まぎれもなく……嗤(わら)い?
 《蛇使い》はゆらりと身を起こし、こちらに顔を向けた。三日月の形に吊りあがった唇が、声の印象を裏付けている。
 ――……え!?
 佇む彼の姿が目に入った瞬間、睦ははっと息を呑んだ。
 黒衣の胸には銃弾が穿った孔が三つ、くっきりと刻まれている。それなのに――ああ、これは、どうしたことだろう。
 銃創からは、一滴の血すらも流れる気配がないのだ。
 破れた布地の向こうに覗くのはただ、虚ろな空洞。
 信じがたいその光景に、睦は呆然として声もない。
 これは、奇術なのか。《蛇使い》の老人の駆る、いまひとつの『力』なのだろうか?
「くくく――茜音よ、やはり貴様は口ばかりらしいのう」
 はりつめた静寂の中に、老人の嘲笑が響く。三発の銃弾で胸を撃ち抜かれているはずなのに、その声には苦悶の響きは全く感じられない。
「わしの『力』を調べたなどと――笑わせてくれるわい。なれば、銃弾などではわしを斃せぬことはおのずからわかっておるはずであろうに」
 《蛇使い》は、ゆっくりとこちらに一歩を踏み出す。それに呼応するように、三人を囲む蛇たちの輪がじわりと径を縮めた。
「……茜音さーん」
 茜音の背中に、京一郎が声をかける。
「大丈夫なんです? なんだか、そこはかとなくまずい雰囲気になってきたような気がしなくもないんですけれど」
 心細げな口調。だが、心細げなのは口調だけだ。ちらりと巡らせた睦のまなざしは、確かに捉えていた。彼の口元に浮かぶ、揺るぎない微笑を。
「――君も物わかりが悪いな、京一郎。黙って観客に徹していたまえ」
 気分を害されたとでもいうように、茜音が嘆息混じりの答えを返した。
 そのやりとりを耳にして――膨らみかけた動揺が、潮が引くように薄らいでいくのを睦は感じる。
 何故なのか、理由はうまく言えないけれど。
 ああ、大丈夫だ――という安堵感が、ふわりと胸を包む。
「二人とも、もう少し僕の近くに寄っていた方がいい」
 振り向きはせぬままに、茜音が静かに声を紡いだ。
「今から少しばかり、騒がしいことになるからね」
 背を向けているのに、浮かべる悪戯っぽい笑みが見てとれるようだ。
 睦と京一郎は、言葉に従って茜音のすぐ後ろに身を寄せる。けれどもまだ、皆目見当もつかない。かの怪老人を退けるために、茜音がいかなる策を懐に抱いているのか。そして、そもそも――
 蛇の輪がまた、包囲を縮めた。その向こうで、《蛇使い》がにやりと口元を歪める。
「……茜音さん」
 声をひそめて、睦は茜音の背に問いかけた。
「何だい?」
「あのおじいさんの奇術って……どんな『力』なんですか?」
 単刀直入すぎて恥ずかしいくらいだったが、これが判らない限り考えが一歩も前に進まない。
 昼は、仁矢くんと駒形さんが見ている前で資料室から消え失せ――今は、茜音さんに銃弾を撃ち込まれて微塵ほども堪えた様子がない。いかなる奇術をもってすれば、そんなことが可能となるのか。
「何をいまさら。あの老人の『力』は名の通り――蛇たちを操るだけのものさ」
 こともなげに、答える茜音。
「で、でもっ――」
「……相談ごとは済んだかのう?」
 嗄れた声が、会話に割って入る。
「最後の会話じゃと思うて、待ってやってはみたが――そろそろ、時間切れというものじゃて」
 《蛇使い》はそう言って、ゆっくりと片手を真上に掲げる。
 タクトを振りかざす指揮者を思わせる、大仰な仕草。それに呼応して、三人を囲む全ての蛇たちが頭を引いた。その様子はまるで、一斉に引き絞られた幾千の発条(ばね)
 老人は笑う。茜桟敷の命運は、わが腕に握ったと言わんばかりに。
 だが、しかし――
「覚えの悪いご老人だな。さっきも言ったが、時間がないのは君のほうだ」
 嘲笑に報いたのは、それ以上に冷ややかな嘲りの声だった。
「……強がりを言いおって。もはや、貴様らの口車には乗らんぞ」
「ずいぶんと頑なだね。何か嫌な目にでも遭ったのかい?
 あいにくだが、僕は根が正直な人間なんだ。耳を傾けてくれても損はしないと思うよ」
 憎々しげな老人の言葉に、茜音は答える。後ろのふたりが一瞬呆気にとられるくらい、それはもう平然とした口調で。
「ほら――嘘だと思うなら、自分の胸元を見てみるといい」
「何、じゃと?――」
 《蛇使い》は訝しげに、ちらりと己の身体を見下ろして。
 沈黙が、その場を支配した。
 言葉が途切れたというのみの沈黙ではない。空気そのものが凍りついてしまったかのような、絶対的な静止。
 それを打ち破ったのは三方からあがった、驚愕の声だった。
 睦と、京一郎と、そして――
「な――何じゃ、これはっ!?」
 狼狽の色も顕わに、彼は両の手で己の胸元を押さえる。
 茜音の銃によって穿たれた、三つの孔。依然としてそこから、血の流れ出でる様子はない。だが、その代わりに。
 煙が。
 淡い紫色の煙が、濛々と立ちのぼっているのだ。
 《蛇使い》は慌てて、黒衣の孔を指で覆う。
「やめておいたほうがいいと思うがね。無駄――というよりはむしろ逆効果だよ」
 嘲りの響きすらない、ただ淡々と紡がれた茜音の声。
 押さえた指の間から、煙はなおも沸き出でる。刻一刻と、その勢いを増しながら。いまや老人の上半身は、ぼんやりと紫煙の中に霞みつつあった。
「――ぐ――あ?――」
 己の身に何が起こっているのかもわからない。そんな驚愕とも苦悶ともつかぬ呻きとともに、《蛇使い》のシルエットががくんと片膝をついて。
「――えっ!?」
 呆然とその姿を見据えていた睦は、眼鏡の奥で思わず目をしばたかせた。
 違う。膝をついたのではない。屈みこんだのでも、屑折れたのでもなくって。あれは、一体――
「えーと……茜音さん――何ですかね? これは」
 隣の京一郎が、いささかためらいがちに口を開いた。彼にしては単刀直入な問いだったが、いやしかし、これ以外には尋ねようがないだろう。眼前に繰り広げられる、あまりにも不可解な光景を目にしては。
 《蛇使い》の身体が……沈んでゆくのだ! 床に乱れ波うつ、蛇たちの海の中に。
 腰から下は、もはや完全に消失しているように見えた。残った上半身も、胸から煙をあげながらゆっくりと傾ぎ、蛇の群れに没しつつある。
 茜音が、ちらりと後ろを振り返った。口元に浮かべた静かな笑みから察するに、この信じがたき光景も彼女にとっては予想のうちにあるらしい。
「京一郎。昼間に君が使った策を、少しばかり拝借させてもらったよ」
「――え?」
 問いからはかけ離れた答えを返され、京一郎がわずかに首を傾げる。
「あの煙の正体は、南方に古くから伝わる毒蛇よけの香木の一種さ。銃弾に仕込むのはいささか手間だったが――それなりに効果はあったようだね」
 まさに手品のタネ明かしといった、こともなげな口調。だが、銃弾と煙のタネは披露されても、それはいま目の前に繰り広げられる怪異を説明するには十分でなかった。
 呻きをあげながら、床に埋没していく黒衣の老人。煙を吹き上げる胸の孔も、いましも蛇たちの海に触れんとしている。
「き――貴様――貴様ぁっ!」
「君のその身体は、《歯車公爵》の手によるものらしいな。まったく――腕はともかく、相変わらず趣味の悪いことだ」
 投げかけられた憎悪の声と視線を軽く受け流し、茜音は肩を竦めて呟く。
 その言葉に、《蛇使い》の表情がはっと凍りついた。
 驚愕に両の眼を見開いたまま――その半身が、ぐらりと前に傾く。
 ざあぁあぁっ……!
 茜音のいう蛇よけの煙幕が、床に達したからだろう。蛇たちが一斉に、崩れゆく《蛇使い》の周囲から離散した。
 瞬間。
「あ――!」
 睦は思わず、口元に手をあてて驚愕の声を洩らしていた。
 初めて、目に入ったのだ。怪老人の身体に、生じた変事が。
 否。それを果たして、彼の身体と言っていいのかは定かではない。
 なぜなら。
 床の上に広がった、《蛇使い》の黒衣。その中からは――
 蛇が。無数の蛇たちが次々と這い出でて、周囲に散っていくのだ。
 五匹、十匹、二十匹。それに従って、衣服の中にある《蛇使い》の「身体」はさら容積を失っていく。
 いまや、完全に明らかだった。黒衣の中には、無数の蛇がぎっしりと詰まっていたことが。そして、無数の蛇の他には何も詰まってはいなかったことが!
 《蛇使い》の首が――首から上だけが、ごろりと床に転がる。
 次の瞬間には土気色の皮膚も、長い白髪もばらばらのパーツに分解していた。
 ひとつひとつの破片を咥えた蛇たちはまたたくまに周囲に散り、ざわめく蛇群の海に溶けこんでいく。
 あとにはただ、ふたつのものだけが床の上に残された。
 そう、昼間の学校における怪人の遺留品と同じ。黒い衣と、小さな無線機が。
『お――おのれ――おのれ――』
 壊れたレコードのように怨嗟の声をあげるスピーカーを、茜音はちらりと見下ろして。
「それなりに楽しい前座芝居だったよ。のちほどまたお会いしよう、ご老人」
 変わらぬ涼しげな笑みとともに、手にした拳銃の引き金を引いた。
 小型無線機は炸裂音をあげて消し飛び、老人の声は絶える。
 建物の中に響くのはただ、乱れざわめく蛇たちの鱗の音のみ。
 床に満ちていく煙に追われて、彼らはわれ先に部屋の周囲へと散っていく。あるものは、積み上げられた木材の陰へ。あるものは、壁を這い登り天井を目指して。
「あ……茜音さんっ」
 そこで睦は、ようやくわれに返って声をあげた。
「蛇――外に出ちゃいますよっ」
「慌てる必要はないさ、睦くん」
 逃げ散じる蛇たちを眺めながら、茜音はこともなげに答える。
「この部屋はすでに、《結界(パノラマ)》で囲い込んである。
 どうせ街には出られないから、好きにさせておいてやりたまえ。《蛇使い》の目と耳でもある彼らが近くに群れていたのでは、僕らの相談もやりにくいというものだからね」
「……そうおっしゃるってことは、《蛇使い》さんはまだどこかにいらっしゃるわけですね」
 溜息混じりの言葉を挟んだのは、京一郎だった。淡い煙のたゆたう床の上。散乱する小型スピーカーの部品に、彼は顔を向ける。
「あの無線機のような機械こそが驚くなかれ、小型人工知能である《蛇使い》の本体だったのだ! ……なんてのに、ちょっとだけ期待しちゃったんですけれどねえ。やれやれ、これで終わりじゃなく、もう一ラウンドありですか」
「《傀儡》……だったんですね。いままでわたしたちが見てきた、あのおじいさん」
 自分の声がぽかんと呆けたようになってしまうのを、睦はどうすることもできなかった。
「傀儡人形というよりは、かぶりもののぬいぐるみだな。
 《蛇使い》の思念に併せて中の蛇たちが動くと、張り巡らされた糸によって表情までもが変化するように造られているのだろうさ」
「そうかあ――」
 睦は、ぽつりと呟いた。情けないことだけれども、それ以上言葉が出てこない。事実を目の当たりにしたいまでも、まだどこか信じられなかった。今の今まですぐ目の前で高笑いをあげていた怪老人が、内部に詰まった蛇たちによって動くつくりものだったなどとは。
 いつしか毒蛇たちの動きもすっかりなりをひそめ、ビルの中は薄闇と静寂とに支配されている。
 ひとつ息をついて気を引き締めなおすと、睦はポケットから金色の懐中時計を取りいだした。
 そう、途方にくれている場合ではないのだ。今このときにも、地下に落ちたふたりはどんな危険にさらされていることか――
 時計の長針を『1』にあわせて、竜頭(りゅうず)を素早く三回押す。通信装置としての機能を呼びだすための、それは秘密の操作法だった。
 硝子蓋の中で文字盤がゆらりと霞んで消え、『茜音』『京一郎』『仁矢』の三つの名が黒字に白で浮かびあがる。
 通信の相手である仁矢の名に針を合わせて、睦はいまいちど時計の竜頭を押した。
 だが――
「え――?」
 睦の背を、ぞくりとした悪寒が走り抜けた。いつもならば通信を始めるはずの特製懐中時計は、うんともすんともいってはくれないのだ。
「ありゃ……繋がらないのかい?」
 京一郎の問いに、睦は無言で頷いた。いまいちど同じ操作を繰り返したが、懐中時計は手のひらの上で沈黙を保ったままだ。
「成程――思った通りだな」
 短い溜息とともに、茜音が口を開いた。先程、仁矢とつばさを飲み込んだ陥穽――床に走る継ぎ目に、ちらりと視線を向けて。
「察するに、地下に落ちたのだろう? 仁矢とつばさくんは。それでははまあ、駄目だろうさ」
「あ、茜音さんっ」
 睦は思わず声を詰まらせた。そんな。駄目、って、それはどういう――
「慌てないでくれたまえ。
 何か勘違いをしていないかい? 落とし穴に落ちたくらいでどうにかなる仁矢たちではないよ。
 僕が言ったのは、通信のことさ。この建物の地下には、少しばかり念入りな《結界》が張り巡らされている場所があってね。つばさ君たちがそこに踏み込んだのなら、無線が届かないのも無理はない。
 逆に――落とし穴に落ちた時点で人事不祥になったなら、つばさ君たちはこの真下だ。無線そのものが届かないなどということはないはずだよ」
「あ――」
 茜音の言葉に、睦は呆けたような声を洩らす。もう少しで、くたんと膝の力が抜けてしまうところだった。
「いやあ、いまのは茜音さんの言いかたが問題だったんだと思いますけどねえ」
 取り乱しかけた恥ずかしさで赤くなった睦に代わって、京一郎が唇を尖らせてみせる。
「っていいますか実際、僕らの心臓に負担かけることを行動の指針にしていらっしゃるでしょう茜音さん」
「――さて、今後の僕たちの動きかただが」
 彼の言葉を完全完璧に無視して、茜音は口を開いた。
「今言った通り、このビルの下はなかなか厄介なんだ。以前、それなりに腕の立つ奇術師が牙城としていた経緯があってね。その頃に彼が仕掛けた《結界》や《転移》の奇術が、今でも幾重にわたって残っているんだ。
 解除できないものではないが、多少の時間がかかるな。その落し穴から下って仁矢たちの後を追うのは、良策じゃないだろうね」
「うーん……とはいえここでこのまま待つってのもちょいと気に入らないですよねえ」
 京一郎も慣れたもので、何事もなかったかのように本筋に戻る。
「時間がかかっても、《結界》をひとつずつ破って仁矢くんたちに追いつく……ってわけには、いかないんですかね」
「構わないが、どのみち間に合わないだろう――闘いが終るまでには」
「そう……なんですね、やっぱり」
 睦は、わずかに震える声で口を開いた。再び胸の底に湧き立つ、不穏な暗雲を感じながら。
 茜音の言葉の通り、地下に《結界》に護られた空間が広がっているのだとすれば。
 怪人の牙城であるこのビルの中核は、地上のこの部屋ではないことになる。だからこそ、《蛇使い》がこの部屋に置いたのは傀儡でしかなかったわけで。
 つまり。
 陥穽に落ちた仁矢とつばさが、向かったその先こそが――
「ああ」
 考えを察したのだろう。睦の目を正面から見据えて、茜音は頷いた。
「おそらく今、仁矢たちは相対しているはずだ。《蛇使い》の本体とね」


「な――なんでっ!?」
 両の目をまん丸く見開いて、つばさは素っ頓狂な声をあげた。
 幾つもの?マークが、ぐるんぐるんと頭の奥を回る。
 考えたって、答えがでるはずはなかった。
 二度三度とまばたきをしてみても、目の前の光景は消えはしなかった。
 つばさは、震える指を正面斜め上に向ける。
 鎌首をもたげた、巨大なインドコブラ。胸部の広がりは、つばさが家で使っている掛け布団ほどもあるだろうか。
 その、広がりのちょうど真上。大蛇の背に、乗っかったような形で。
「なんで――おじいさんが、ここにいるのさっ!?」
「……おやおや、そう問われても困ってしまうのう」
 黒い衣に、延び放題の白い髪。深い皺の刻まれた、土気色の顔。
「かりそめにとはいえ、ここはわしの根城じゃよ。主たるわしが奥に構えておるのは、当たり前のことではないかね」
 大蛇の頭に両手をかけ、身を乗り出して――《蛇使い》の老人は、さも愉快そうにつばさたちを見下ろしていた。
「あ、当たり前って――嘘だよっ、だって、だってっ――」
 それ以上言葉を続けることもできず、つばさは陸に揚げられた魚よろしくぱくぱくと口を動かした。
 あたしたちが落し穴に落ちたとき、《蛇使い》は確かに地上の部屋にいたわけで。洞窟の途中で追い抜かされたりなんてもちろんしていないし――そもそも時間的にそんなのは無理というものだろう。
 ならば、いま目の前にいるこの老人は、一体。
「……成程、な」
 隣の仁矢がぼそりと発した呟きに、つばさははっとしてまなざしを向けた。
 なんで? なんで仁矢くんいつの間にかひとりで納得して落ち着いちゃってんの?
「そういうことかよ……セコい手を使いやがって」
 ――そ、そういうことって?
「ほう。見かけによらず、察しは良いようじゃな」
「おかしいとは思っちゃいたんだ。学校で、てめぇがあっさり消えやがったときからな」
 会話を続ける老人と仁矢の顔を、つばさはきょろきょろと交互に見つめる。
 うあああ。置いて行かれてる置いて行かれてるぞあたし。
「じ、仁矢くん仁矢くんっ」
 仁矢の肩を指でつついて、つばさはちいさな声で問うた。
「な、なにこれっ。どーゆーことなのそういうことって!?」
 彼は例によって煩わしそうな目でつばさを見ると、溜息混じりに口を開いた。
「……《傀儡》だったってことだろうよ。いままで俺らが見てきたあのじじいは」
「く――くぐつ?」
「人間そっくりに造ったつくりものの人形を、別の場所から操る奇術だ。昼間も今も、このじじいはずっとここに居やがったんだろうぜ。
 ……こいつも傀儡だってんじゃなければだがな」
 仁矢のその言葉に、つばさはぽかんとして頭上の《蛇使い》を見上げる。
 ――……人形?
 嘘だよね? 学校で、さっきの部屋で自分の目の前にいた、あのおじいさんが……つくりもの? いくらなんだって、そんな馬鹿なことが――
「正確に言えば、ほかの奇術師たちの使う《傀儡》とはいささか異なるがのう。中に私の可愛らしい蛇たちを入れることで、ただの人形には叶わぬ細やかな動きが可能となるわけじゃ」
 つばさの困惑をよそに、《蛇使い》はあっさりと仁矢の言葉を肯定する。彼は片手を胸にあてて、恭しく頭を垂れてみせた。
「この言葉を口にするのも二度めになってしまうが――お初にお目にかかるのう、ふたりとも」
「――――」
 つばさはまだ、言葉を発せない。発せるはずもない。呆然のあまりもうちょっとで、はぁ、と《蛇使い》にお辞儀をし返してしまうところだった。
 隣の仁矢が、これまでにもまして険悪なまなざしで老人を見上げる。
「で――今になってわざわざ姿を現しやがったのは、どういうつもりだ? 種明かしなんかをしやがるってことは、見世物もそろそろ終わりってことかよ」
「……いいや、それは違うな。『力』あるとはいえまだまだ子供、考えが浅いわい」
 唇を歪めて嗤うと、《蛇使い》は大仰に肩を竦めてみせた。
「知られては今後に障りがある奇術の種を、敢えて自ら坊やたちに明かした。それが一体どういうことなのかを、ちと考えてくれてもよいと思うがのう」
 いま自分たちを見下ろすのが、本物の《蛇使い》なのだと知ったからだろうか。嗄れた老人の声は、これまでにも増して陰鬱に――深い地の底から響いてくるかのように感じられた。
 しゅるっ……と、乾いた擦過音が闇に響く。老人を乗せた大蛇の、舌なめずりの音だ。
「いまさらご大層な口をきくもんじゃねえぜ。
 こいつ一人攫いに来るにも、人形使って自分はこそこそ穴蔵に隠れていやがった臆病じじいが」
 《蛇使い》と大蛇の視線にも、仁矢は怯まない。
 さりとて、仁矢の挑発に老人もまた動じる様子を見せない。
「やれやれ、ひどい誤解もあったものじゃ」
 苦笑とともに、彼は大蛇の頭を手のひらで撫でた。コブラがゆっくりと首を垂れ、背に乗った《蛇使い》の身体がつばさたちの目に顕わになる。
 ――え?
 刹那、つばさは思わずぴくりと肩を震わせた。
「言い訳と聞こえるかもしれんが、わしは別に臆してここに身を置いていたわけではないよ。
 このような出で立ちでお嬢ちゃんを迎えに行ったら、驚かせてしまうと考えたからでの……」
「あ――わあぁっ――!」
 老人の言葉の通り、つばさは掠れた驚愕の声を発していた。
 見えたのだ。《蛇使い》の姿が。その全貌が、はっきりと。
「くくく――『力』を得んがために望んで与えられたこの身体じゃが、こういう時ばかりは少しばかりの不自由に甘んじねばならん」
 大蛇がゆらりと、頭を巡らせた。その背に乗った、《蛇使い》の身体もまた――
 否。
 違う。黒衣の老人は、大蛇に乗っているのではなかった。
 何故なら――《蛇使い》の身体には、腰から下が見えないではないか。
 生えているのだ。彼の半身は。巨大なるコブラの背中から、繋ぎ合わされて突き出ているのだ!
 嗚呼、あまりにも奇怪なる、半身半蛇の融合。
 後ずさることすらもできずに声を失ったつばさに、怪老人はまなざしを向ける。その双眸の奥で、蒼白い光が揺らめいた。
「お嬢ちゃんの柔らかな身体を我が牙をもって貪るために――手数をかけて、この地下深くまで案内せねばならなかったわけじゃからな。
 くく――くくく――くはははははっ!」
 響きわたる、《蛇使い》の哄笑。その笑いの声に合わせて――
 ……しゃぁあぁっ! 
 大蛇は顎を開き、並んだ牙の奥で長い舌を歓喜にくねらせた。 






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