〜 第四十四幕 決着、そして―― 〜


 「おのれ……っ」
 暗い憎悪を孕んだ声が、真夜中の遊園地にこだまする。
 鎌首をもたげた大蛇の上から、黒衣の老人は地上の茜音を睨み据えた。
「幾度も幾度も虚仮威しを使いおって――」
「言えた義理ではないだろう。もっとも威しとして成り立たぬ以上、君のはただの虚仮でしかないわけだが」
 《蛇使い》の憤激などはそ知らぬ顔で、茜音は呟く。夕闇の色を湛えた瞳をすうっ……と細めて、彼女は静かな一歩を踏みだした。
「う――動くなっ!!」
 老人が、引きつった声をあげる。
 茜音が足を止めるのを目にして、初めて自分の優位を思い返したのだろう。汗ばんだ《蛇使い》の顔が、歪んだ笑みに彩られる。
「耳か頭のいずれかがおかしいようじゃな、貴様は。この娘の友人と家族の命は、我が手の内にあると言うたはずじゃぞ。
 そこから一歩でも動けば、すぐにでもわが子らの牙で喉笛を食い破ってくれる。それでも良いなら、貴様の下らぬ奇術の腕を振るうてみるがいいわ!」
「……つくづく失望させてくれるな、君は」
 わずかに俯いて、茜音は溜息をついた。
 一瞬の間をおいて再び顔をあげたとき――彼女の顔に浮かんでいたのは、凍てるがごとき冷笑だった。《蛇使い》のみではない、彼女を見おろしていたつばさですら背筋が寒くなるほどの。
「やってみるといい。それしきのことが足枷になると思っているのなら、僕もつくづく見くびられたものだ」
「あ……茜音さんっ!!」
 コースターのレールの上で、つばさが悲鳴に近い声をあげた。
 そう。つい今しがた、茜音は口にしたばかりなのだ。夜が明けるまでに、毒によって眠らせられた者たちを救うのだと。それを。それなのに。
「よう言うたわ。
 お嬢ちゃん、あれがお嬢ちゃんが頼みにした茜音という小娘の正体というやつじゃ。わしを恨んでくれるなよ。
 ……とはいえ、人質をすべて失ってしもうては元も子もありはせぬ。お嬢ちゃんに選ばせてやろう。友人と家族、どちらを失いたいかの?」
「ま――待って――やめてよっ!!」
 半ばしゃくりあげながら、つばさは《蛇使い》と地上の茜音とを見比べる。茜音はなんら言葉を発さず、変わらぬ冷たい笑みを浮かべて佇むばかりだ。
「――っ!」
 鉄骨の足場を蹴って、つばさは跳び下りた。アスファルトの上、茜音のすぐ目の前に。
 興味深げに、男装の少女は両の目を細める。
「ふざけないでよっ、どういうことなのさっ!?」
 自分が何をしているのかも意識しないままに、つばさは茜音のシャツの胸倉を掴みあげていた。
 だがそれでも、茜音の唇に浮かんだ冷笑は変わらない。ふっ、と軽い息を刻んで、彼女は淡々と言葉を続けた。
「ふざけてなどはいないさ。あの老人が何をしようと、僕にはさしたる問題じゃない」
「――――!!」
 恐慌の炎に油を注がれて、つばさの頭がかっと熱くなった。
 ぱんっ! という音が耳に響く。
 振りまわした自分の腕が茜音の顔をはたいてしまったのだということに、つばさは一瞬遅れて気がついた。気がついたけれど、憤りの奔流は止まらない。
「ばかぁっ!」
 語彙の乏しい怒声を叩きつけて、つばさは茜音にくるりと背を向けた。
 もういい。何を考えてんだかわからないけれど、もう頼まない。千絵ちゃんや叔父さんや叔母さんの命をさしたる問題じゃないなんて、いくら茜音さんだってぜったいに許すもんか。
 こうなったらもう飛びかかって首にしがみついてでも、あたしが《蛇使い》を止めてやるんだ。
 ぐしぐしと手の甲で涙を拭い、両脚に力をこめながら黒衣の老人を睨み上げて。
「――え?――」
 そこでつばさは、呆然そのものの声を洩らす。
 怪老人の――《蛇使い》の顔に浮かんだ表情は、つい数秒前までの勝ち誇った嗤いではなくなっていた。
 両眼を見開き、血の気を失った唇をわなわなと震わせて。驚きと焦りも顕わに、老人は天を仰ぐ。
「なっ、なぜっ――どういうことじゃこれはっ!?」
 見上げるつばさにも、むろんわけがわからない。一体これは、何がどうなって――
「おや。何かあったのかい? ご老人」
 つばさに代わり問うてくれたのは、背後で響いた茜音の声だ。だがその口調には疑問というよりはむしろ、からかいの色が濃い。
「ひとつ訊くが、君が言う『わが子ら』とやらは――上野の病院と駒形座事務所の屋根に張りついていた蛇たちのことかい。もしそうならば、ここから命令を送っても無駄というものだよ」
 ――え!?
 びくんっ、と肩を震わせて、つばさはいまいちど後ろを振り返る。
「きき、貴様――一体何をしたっ!!」
「そういきり立ってくれるな。
 夜を徹しての番も気の毒だと思ったものでね、少しばかり安眠の時間を進呈しただけさ。今頃は僕の《結界》の中で、故郷の熱帯雨林の夢でも見ているのではないかな」
 うわずった《蛇使い》の叫びに、茜音はこともなげに応える。
「イカサマ師としての経歴は、僕もそれなりに長い。相手の手に切り札を握らせたままにしておくほど、お人よしではないよ」
「あ――」
 淡々と言葉を紡ぐ茜音を見据えたまま、つばさは真っ赤になってあうあうと唇をぱくつかせた。
 安堵やら申し訳なさやら恥ずかしさやらで、何を言ったらいいのかもわからない。あああ、あたしの馬鹿馬鹿馬鹿。なんだってこう、ろくろく考えもせずに――
「ぁ、茜音さんっ」
「気に病むな。君の粗忽などもとより承知の上さ」
 乱れたシャツの襟元を正しながら、茜音は小さく肩を竦めてみせる。
 その向こうで、睦が困ったような笑みを浮かべるのが見えた。
「……いまのは茜音さんがいけなかったと思う」
「そうですよ。どうしてこう、こっちまでヒヤヒヤさせないと気が済まないですかねえ」
 隣の京一郎が、うんうんと頷く。
「駒形さんのことを思ってあらかじめ憂いを断っておいたって、素直におっしゃればいいですのに。あ、もしかして来るのが遅くなったのもそれのためだったのですかね」
「誤解するな、ほんの片手間だ。
 さて、」
 少しばかり憮然とした顔で、茜音は息をつく。鉄骨の上で硬直する《蛇使い》を見上げながら、彼女はつばさの前へと歩み出た。
「そんなわけで――君に残された道はふたつだけだよ、《蛇使い》。
 生きているうちに解毒剤を渡すか、屍を晒したうえで寄越すかだ。
 僕はここにいる団員達ほど甘くはない。君の大蛇が呑み込んでいる硝子瓶……喉を割いてでも手に取らせてもらうよ」
「――ぐ――!!」
 見開かれていた老人の両眼が、さらに大きく剥かれた。
 驚きに打たれているのは、《蛇使い》だけではない。睦も京一郎も、仁矢もそしてつばさも――一瞬息を呑んで、コースターのレール上を見上げる。鎌首をもたげた、巨大なコブラの胸元を。
 生白い鱗に覆われた喉が、ごりゅり……と音をたてて蠢いた。
 あそこに。あの中に、千絵ちゃんを助けるための解毒剤が?
 凝視するつばさのまなざしの先で、大蛇は力なく口を開いた。
「く――うぅ――」
 もはや観念したのか、《蛇使い》は肩を落としてがっくりとうなだれたままだ。
 ぬめり光る大蛇の舌が、桃色の蛞蝓のごとくに顎から這い出てくる。その先端に絡め取られたものが――小さな硝子の瓶が、照明を浴びててらてらと煌めいた。
 つばさの目にははっきりと見える。透明な容器の中に、波打つ液体の動きさえも。
 瓶。解毒剤の、瓶。
 ああ、ああ――
 今すぐ跳び上がって、あの瓶を掴み取りたい。そんな気持ちを懸命に抑えこんで、つばさは祈るように次の一瞬を待った。
 《蛇使い》が、ゆっくりと顔をあげる。
「……茜音」
 紡がれたのは、静かな呟き。
 表面上はどこまでも穏やかなその声が、何故だか逆につばさの肌を粟立たせた。
 土気色の顔に宿るは、仮面じみた無表情。
 何かが。決定的な何かが怪老人の奥底で断ち切られたのを、つばさは直感的に感じ取る。
「貴様はひとつ、勘違いをしておるようじゃな。
 生きて解毒剤を渡す? それがわしの助かる道じゃとでも言うつもりかの。
 命を果たせなかったのみならず、解毒剤というそのお嬢ちゃんへの手札すらも持ち帰れぬとすれば――結社の中でわしの生きる道などあるまいに」
 舌を伸ばしたまま、大蛇がぐぐ……と頭を垂れる。
「成程、確かに貴様のほうが一枚上手だったようじゃ。わしの命運もこれまでやもしれん。
 じゃが、最後にひとつ――ささやかな望みを叶えさせてもらうぞ。そのお嬢ちゃんの……悲しみと絶望に打ちひしがれる愛らしい姿を、ひと目会うたときからわしは見たいと願っておってな――!」
 老人の呟きが、狂気に満ちた叫びに転じたその瞬間――
 ヴンッ! という唸りあげ、大蛇の舌は鞭のごとく横に振られた。
「ぁ――!!」
 掠れた悲鳴が、つばさの喉を洩れ出でる。
 瓶が。
 勢いよく振り投げられた解毒剤の瓶が、放物線を描いて夜空を舞う。
 遠くへ。距離を隔てた、アスファルトの広場へ向かって。
 ――千絵ちゃんっ……!!
 胸中に友の名を叫び、その叫びに弾かれるようにつばさは地を蹴った。

 ――ホップ!――
 
 照明の光を浴び、流星さながらに煌きながら。
 小さな硝子瓶は、広場に落ちていく。

 残るすべての《力》を、脚にこめる。
 跳躍の先は、広場の中央。硝子瓶の落下点。
 ああ、でも。

「く――ははっ!!――ははははははっ!!」
 背中に突き刺さる、《蛇使い》の哄笑。

 間に、あわない。
 そんな、そんな――

「――駒形――!!」

 鋭い叫びが。
 今夜幾度も、迫る危機を薙ぎ払ったあの声が。
 刹那、つばさの耳に届く。

 仁矢の姿が、見える。
 立っている。まなざしの先に。
 爪先を伸ばすように、彼は片足を前へと差し伸ばした。

「――――!!」

 ――ステップ!――

 つばさの二歩目が、大地を蹴る。
 仁矢の立つ、その場所を目掛けて。
 何故だろう。
 言葉を交わさずして、されど仁矢の意図は電流のように胸に伝わってきた。

 伸ばされた、仁矢の足先。
 その靴の甲に、着地するつばさの足が重なる。

 瞬時。

「――りゃぁっ!!」
 凄絶な気合とともに、仁矢が脚を振り上げた。
 岩をも砕く、《百人力》の蹴り。
 その力が、わずかの狂いもなくつばさの脚に加わる。

 同時に。

 ――ジャンプ!!――

 引き絞った《力》の全てを仁矢の《力》に重ねて、つばさは跳んだ。
 宵風を、身体に纏わせて。
 想いを、一対の翼と化して。
 前へ。前へ。ただ前へ。
 跳躍ではない。
 それはもう――飛翔だった。
 
 無限にも等しかった十メートルが、刹那にしてゼロに変わる。
 硝子瓶の放物線に、つばさの弾道が突き刺さる。
 くるくると緩慢に回りながら、目の前を横切らんとする瓶を――つばさは両手を伸ばして、しっかりと掴み取った。

「――っ!」
 歓喜の叫びは、声にはならない。
 小さなその瓶を胸にひしと抱き、つばさは身体を屈める。
 くるりと宙返り。揃えた両足を下に、つばさは広場の中央に着地する。
 勢いを殺すことはできなかった。スニーカーが数メートル、アスファルトの上を滑る。靴底のゴムが焦げる匂いが鼻をつき、二条の煙が淡く宙に立ち昇った。
 その煙が夜風に溶け消えると同時に、つばさはかくんと地面に膝をつく。
 ――解毒剤っ!
 確かめるように、つばさは両の手を握りしめた。
 ここにある。小さな硝子の瓶は、しっかりと自分の胸の前に抱かれている。それでもなお心の乱れを抑えきれずに、幾度も幾度も瓶の上を指で撫でる。
 間違いない。ここに、ある。
「ぅう――くっ!」
 ぶるるっと肩が震え、視界が滲んだ。涙腺が壊れてしまったのではないかと思うほどの涙が、瞳の奥から湧き溢れてくる。
 顔をあげると、ぼやけた風景の中に佇む仁矢の姿が見えた。
「あ――あ、――ひぅっ」
 ありがとうは、またも言えない。喉の奥が詰まって、ひくついて、声が出てこない。
 しゃくりあげたまま見つめるつばさの視線から、仁矢は舌打ちとともに顔を逸らした。
 何泣いてやがるんだてめぇは、まだ終ってないんだぜ。そうとでも言いたげに、彼はコースターの方向をくいと顎で指し示す。
 つばさは頷いて、ぐしぐしと涙を拭った。
 今宵の戦いの、終結を見届けるために。
 否。今宵の戦いの、終結の場に加わるために。
 立ち上がると、つばさは仲間たちのほうへと歩き出した。

「チェックメイトだよ、《蛇使い》」
 静かな――月明かりに光る刃を思わせる声で、茜音は言葉を紡いだ。左手の指をゆっくりと、胸シャツのポケットに差しいれながら。
「君も奇術に生きた者のうちのひとりだ。くだらぬあがきでこれ以上己の名を穢すのは、なしにしてもらいたいものだね。
 《力》を手放して遁世する気があるのなら、《結界》を張る手伝いくらいは考えないこともないよ」
「まだじゃ! まだ――!! ははっ――はははっ――」
 顔にびっしりと汗を浮かせ、《蛇使い》は血走った眼で地上の茜音を睨みつける。唇を三日月型に吊りあげたその笑いは、もはや完全に狂気の側に属するものだった。
「お嬢ちゃんの身近のみではない。わしの可愛い蛇たちは、この町中に潜ませておる!
 このまま終わりはせぬぞ、ひとりでも多くの者を死出の旅のともがらとしてくれるわっ! 屍に溢れた明日の朝の街を見て、己らの無力を恥じるがいいっ!!」
 調子の外れた叫びのあとには、けたたましい哄笑が続いた。もはやいつ果てるともなく、堰が壊れたように怪老人は笑い続ける。
「く――」
 緊迫した表情で声を失う茜桟敷一同の只中で、茜音が微かな声を洩らした。彼女としては珍しい、噛み殺したかのような声を。
 京一郎たち四人から見えるのは、茜音の背中だ。
 ゆえに彼らは、目にすることはできなかった。
 表情を殺して《蛇使い》の狂笑いを見上げる、男装の少女。夕闇の、名の通りの深い茜の彩りを宿した、彼女の双眸。
 その瞳の奥に過るものが、焦りでも、悔しさでも、怒りでもなく――一抹の、寂寥の色であったことを。
 それすらも、ほんの数秒のこと。短い溜息をつくと、彼女はシャツのポケットから一枚のカードを抜き出した。照り交うライトを受け、札の縁が刃の如き凶々しき煌きを帯びる。
「――《蛇使い》――!」
 対峙する奇術師の名を鋭く唇に刻んで、茜音が腕を掲げた――
 その、刹那だった。

『――貴女のお手を煩わせることではありませんよ、茜音様』

「――――!」
 驚愕が、電流のように場を走り抜けた。
 ――え――!?
 つばさは思わず、周囲に視線を走らせる。
 仁矢も、睦も、京一郎も、皆一様にはりつめた表情で辺りをうかがっていた。茜音ですらも、カードを持った手を掲げたままその場に立ち尽くすのみだ。
 そして、コースターの上の《蛇使い》は。
「な――なっ――!」
 有り得ぬものでも目にしたかのように、老人は呆然と両の眼を見開く。
「馬鹿なっ、貴様……!」
 彼は絶句して、頭上を仰ぎ見た。
 その、視線の先に――
「――え!?」
 驚きの叫びを、つばさは抑えることができなかった。
 《蛇使い》と大蛇の真上、何もない宙空。否、今の今まで、何もなかったはずの宵闇の只中。
 そこに……銀色の凶々しい煌めきが、忽然と浮かび上がっていたのだ。
 刃。長さは二メートル、幅はつばさの胴ほどはあろうかという、巨大な直刀が。
 いかなる支えも、吊り下げる糸すらもなく。忽然と虚空に現れた剣は、ゆらりと旋回した。刃を真下に――硬直した黒衣の老人に向けて。
 つばさの背筋を、冷たい直感の電流が這い滑る。
「や、」
 やめてっ!、と叫びかけたつばさの声も、
「ま、」
 おそらくは、待てっ! と叫びかけた《蛇使い》の声も、
 最後まで発しきるだけの暇は、与えられはしなかった。
 刹那。
 風切る音すらもなく――されど、大槌で打たれたかのような速さで降下した直刀が、《蛇使い》と大蛇の身体を刺し貫く!
 つばさの耳に、いくつもの声が重なって響いた。睦の掠れた悲鳴と、仁矢の呻きと、京一郎が息を呑む気配と、自身のあげた叫びと。それら全てをかき消し、黒衣の老人の言葉には形容しようのない絶叫が長く尾を引いて轟く。
 巻きついていた鉄骨から解け、大蛇は怪老人もろともコースターの上から落下した。ごっ……という鈍い音とともにアスファルトの上に叩きつけられ、そのまま動かなくなる。
「お――おじいさんっ!」
 相対していた敵であることすらも一瞬忘れて、つばさは倒れ伏した黒衣の老人のもとへと駆け寄った。
「あ――!」
 すぐ側らで、ちいさな声が響く。
 睦だった。つばさの横に並んだ彼女は、眼鏡の奥の瞳に驚きの色を浮かべて、老人の身体を見つめている。
 つばさにも判った。彼女を呆然ならしめているものが、一体何であるのか。
 剣が。たった今、《蛇使い》の身体を刺し貫いたはずのあの巨大な刃が――忽然と、目の前から消え失せているのだ。
 いや、刃だけではない。
 うつ伏せに倒れた黒衣の老人の身にも、横たわる大蛇の身にも、刺し貫かれた痕は見て取ることができなかった。一適の血も流れていなければ、老人の黒衣の背も破れ裂けてはいない。
 にも、かかわらず。
 《蛇使い》の身体はもはや、ぴくりたりとも動きはしなかった。
 手足だけではなく。呼吸に上下する背中の動きすらも、そこに見てとることは叶わない。
「――ぁ」
 立ち尽くす自分の膝が細かに震えるのを、つばさはどうすることもできなかった。
 倒れているのは、《蛇使い》であるはずだ。ついさっきまで、今の今まで目の前で哄笑をあげていた、怪老人のはずだった。
 それなのに。ここにいるのは。ここにあるのは。
 悲しいとか、そういうものではなくて。けれども、足元の地面が突然に消え失せたかのような感覚に、つばさはふらりとよろめく。
 その肩を、柔らかに抱きとめる腕があった。
「――香春センパイっ――」
 名を呼んで、彼女の横顔を見上げ――そこでつばさは、息を噤む。
 つばさの身体を抱き支えたまま、睦は横たわる《蛇使い》を見据えていた。
 結ばれた唇と、わずかに蒼褪めた頬。つばさの身にも伝わってくる腕の震えはしかし、怯えのみゆえのものでは決してない。
 眼鏡の奥の、澄んだ双眸。その瞳の奥に宿るのは――つばさがはじめて目にする、香春 睦という少女の怒りの色だった。
 張りつめた一瞬の沈黙をおいて、彼女はまなざしを巡らせる。
 その視線が静かに射抜く先は、何もない中空。静止した観覧車の、ゴンドラの上。
「――茜音さんっ」
「ああ」
 睦が発した声に、茜音が応える。彼女もまた、瞳に険しい光を湛えて。
「油断したよ。君もこの街に戻っていたのか――《幻燈師》」
 ――え!?
 ことの成り行きを理解できず、つばさは呆然と茜音の顔を見つめる。
 次なる異変が起こったのは、まさにその瞬間だった。

 青!
 
 メリーゴーランドが。ゴンドラタワーが。コースターのレールが。入口の門が。アスファルトが。横たわる大蛇が。黒衣の老人の身体が。立ち尽くす皆の姿が。周囲の光景の全てが一瞬にして、暗く色濃い青に染め上げられたのだ!
 先程、茜音の出現とともに点灯した園内のライト――そのことごとくが、一斉にセロファンをかぶせられたかのように、ブルーの光を浮かべている。
「あ――えっ?――」
 信じがたきこの転変に、つばさは見開いたままの目で周囲を見回す。
『――お見事』
 声が、青き世界にこだました。
 先程と同じ、低い男の声。愉快そうな、笑いを堪えるがごとき口調。
『《千里眼》の前では、身を隠すのも無駄ですな。《催眠術》といい、《百人力》と《軽業》の連携といい――面白い役者を揃えられたものです。茜桟敷の舞台、存分に楽しませていただきましたよ』
 嘲弄か、それとも感嘆か。底の知れない声色から、真意を読み取ることはできない。
 朗々と響く声の方角に視線を向けて、瞬間、つばさは思わず驚愕に息を呑む。
 つい今しがた、睦がまなざしで示した……されどその時には何もなかったはずの空間。観覧車の、ゴンドラの上。
 周囲の青を凝縮したかのような、闇に近い藍の長衣を身に纏って――人影がひとつ、端然と虚空に佇んでいる。
 フードの陰に隠れ、相貌を目に捉えることは叶わない。
「何だ……てめえはっ」
 硬直からいち早く立ち直った仁矢が、軋るがごとき誰何の声をあげた。
『成程――貴方たちとこうしてお会いするのは、これが初めてでしたな』
 芝居がかった仕草で、青き影は恭しく頭を垂れてみせる。
 怪人物の顔が、はじめてつばさたちの目に顕わになった。
 仮面。
 両の眼と口とを三日月形に刳り抜いた、笑いの面。
 虚ろなその双眸の奥に凶々しい光を揺らめかせて、彼は言葉を続けた。
『しがない奇術師のひとり――《幻燈師》と申します。以後お見知りおきを』




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