〜 序幕 忍び寄る蜘蛛 〜



 ……地下鉄などに乗ったのは、何年ぶりになるだろう。
 地下鉄浅草駅の自動改札を潜りながら、竹村 重雄(たけむら しげお)は不快げに眉を顰めた。自宅から私鉄と地下鉄を乗り継いで一時間半。歩くのにそろそろ杖の欲しいこの老いの身に、久方ぶりの遠出は堪える。
 改札を出た広場の切符売場には、平日の昼だというのに数多の通行人が行き交っていた。
 無秩序なその雑踏がまた、癇に障る。
 人ごみは嫌いだった。群れる人々の間を歩んでいると、低俗さが己の身にも伝染してくるような気がするからだ。
 普段であれば、何処へ行くにも車に送り迎えをさせる竹村だった。都合がつかない場合でも、せめてタクシーは使う。自分の足で電車を乗り継いで出かけるなど、財あるもののすることではない。そう思っていた。
 が、しかし。
 今日ばかりは、車を使えない事情がある。
 自分の行き先を、雇いの運転手に知られたくなかったのだ。
 タクシーにしても同じである。出来うる限り、他人に目撃されるのを避けたかった。隣県で県議会議員を勤める竹村 重雄が、浅草に出向いたところを。
 だからこそこうして、目立たぬ安物の服を着込んで地下鉄に揺られてきたのだ。
 竹村は、落ち着きない所作で周囲を見回した。目的の出口に辿りつくにはどの通路を通ればいいのか、皆目見当がつかない。
 久しく見ぬ間に地下鉄の浅草通路は、まるで迷路のごとく街の下に触手を広げていた。
 いや――浅草のみではない。
 浅草に至るまでに乗り換えに使ったいくつかの駅も、歩いた街路も。彼にとっては、コンクリートで造られた巨大な迷宮にほかならなかった。
 数十年の長きに渡って関東を離れ、戻ってからも徒歩で都内を往くことは皆無に等しかった。有り余る財を手に地盤を固め、県会議員の椅子を手にしてからもそうだ。意識的に、東京――殊更に都心に足を踏み込むのを避けてきたといってもいい。
 無論、浦島太郎よろしく世界から隔絶されていたわけではない。テレビの画像や車の窓から見える景色を通じて、東京という都市の変貌は十分に存じていたつもりだ。
 つもりだったのだが――こうして実際に歩き回ってみると、やはり驚きを禁じえない。
 自分が身を置いていたあの頃の東京にも、鉄筋コンクリートのビルはあった。高度経済成長の波に乗り、まさしく雨後の筍(たけのこ)のように新たな建物が乱立しはじめた時代だ。
 だがそれでも、まだまだビルは疎らだった。建物と建物の間から、遠い街並みを望むこともできたのだ。
 だが、今はどうであろう。通りに沿って並ぶ建築物の群は、まるで一枚の城壁のよう。その向こう――たかだか50メートルも離れていない場所に何があるのかを、目で見ることは叶わない。
 自分が今歩いている、この地下道にしてもそうだ。
 この壁の向こうは、ただの土なのかも知れぬ。しかし、デパートの地下であるのかも知れぬし、地下鉄の通る路線であるのかも知れぬ。
 一枚のコンクリートを隔てた隣に如何なる空間が広がっているかも判らぬまま、人は通路を、街路を歩む。何処に涯があるのかも定かではない、巨大なる迷宮都市――
 そこまで考えたところで、竹村はふと我に返った。
 ――馬鹿な。
 苛立たしげな溜息とともに、頭(かぶり)を振る。
 ――柄でもない、何を可笑しな想像に浸っているのだ、儂は。
 今は、それどころではあるまいに。
 竹村はまた、注意深く周囲を見回した。
 いつの間にか地下飲食店街を抜け、あまり人気のない通路に足を踏み入れている。
 コインロッカー脇に細い階段があるきりで、その先は行き止まりらしい。立入禁止の立て札が、切れ掛かった蛍光灯の灯りの下でどこかうら寂しく佇んでいるばかり。
 ――確か……この辺りのはずだが。
 眼差しを巡らせて周囲に人の姿のないことを確かめると、彼は懐から一枚の紙片を取り出した。
 折りたたまれた紙を広げ、目を落とす。彼がこの駅まで足を運ぶに至った要因である、短いその文面に。

『五月六日、午後三時。
 地下鉄浅草駅 松屋寄りの出口階段下に来られたし。
 ゆめゆめ他言無用也』

 達筆な筆文字で書かれた内容は、只のこれだけである。
 差出人の名は記されておらず――一方的な指図と他言無用との一語を見るに、脅迫状めいた雰囲気が色濃い。
 だが、それにしては具体的な要求が何も書かれていないのが妙だ。金銭を持参しろというわけでもなければ、そもそも要求に従わねば何が起こるのかも示されていない。
 質の悪い悪戯として一笑に付しても、何ら問題はないであろう内容だった。
 そう――紙片に書かれていたのが、この一文のみであったのなら。
 竹村の指の中で、紙片がくしゃりと乾いた音をたてる。知らぬうちに、強く握りしめてしまっていたらしい。
 問題は、書かれた文章のすぐ脇にあった。
 署名の代わりとばかり、短文の脇に藍色のインキで捺された印章。竹村はそれこそ孔の開くほどに、その不吉なマーキングを凝視する。
 蜘蛛。
 そう、それは脚を伸ばす一匹の蜘蛛をモチーフにした紋章だった。
 稲妻型に描かれた線分が、身体と脚の一部を斜めに切り取っている。
 これは別に、身体が欠けているわけではない。壁の亀裂から今まさに這い入らんとする、毒蜘蛛の図なのだ。
 竹村は、この印章を知っていた。
 知っている、どころではない。彼にとってそれは、余人に知られてはならぬ――封ずるべき過去の象徴にほかならなかった。
 だからこそ。彼はこうして部下にも警察にも告げず、独りで浅草までやって来たのだ。
 ――誰だ。
 額に浮かんだ汗を拭いながら、竹村は胸中に問う。
 ――今更誰が、こんな――儂を強請(ゆす)るつもりか、馬鹿者めが。
 貌の見えぬ脅迫者を、彼は罵倒する。要求はなくとも、この印章を用いてある以上、この紙片は脅迫状にほかならなかった。
 ――誰だ――三島か――定岡か――
 この印章を知っている人間はさほど多くはない。
 否。正確に言えば、この印章と竹村との結びつきを知っている人間はさほど多くはない。
 ――御子柴(みこしば)か――藤堂か――
 久しく記憶の隅に追いやっていた顔と名前を、彼は脳裏に巡らせる。互いの行く末すらも知らせず、東京から散って行ったかつての同胞達。
 もとより、竹村を含めて数人しかおりはしないはずなのだ。
 ――高柳――
 無意識に脳裏に浮かんだ最後の名前を、彼は慌てて打ち消した。
 ――馬鹿が。少しは落ちつくがいい。
 錯乱している証拠だ。あの男であるはずがないだろうに。
 彼は、あの夜に。あの雨の夜に、間違いなく――
 
 ――かさり――

「――!」
 手元で鳴り響いた微かな音に、竹村は息を呑んだ。
 見れば、何が起こったわけでもない。丸まっていた紙片が、指の中でひとりでに広がっただけだ。
 ――お、脅かしおってっ。
 苛立たしげに、彼は鼻息をつく。
 よりにもよって紙切れに怒りをぶつける様は、滑稽以外の何物でもなかったが――自らの身を冷静に省みるだけの余裕は、もはや竹村にはなかった。
 鳩尾(みぞおち)の奥で、心臓が乱れたリズムを刻む。脇の下に、じっとりと冷たく不快な汗が滲んでいる。
 紙の上。藍色のインキで捺された、毒蜘蛛の紋章。
 広がる六本の脚が、今にもわらわらと動き始めそうな気がした。
 描かれた罅から這い出し――のみならず紙の中からも這い出して、儂の指に毒の牙を突き立てそうな。
 ほうら、今にも。ああ、ああ――
「――くっ!」
 歪んだ呻きを洩らすと、竹村は紙片に指をかける。
 限界が近かった。今の今まで必死に抑え込んできた不安と恐怖が、際限なく胸の中に膨らんでいく。
 腕時計の針は三時を回った。脅迫者はまだ姿を現さない。何が目的なのか。こうして慌て慄く自分を、影から覗いて嘲笑ってでもいるのか。誰だ。誰だ。誰なのだ。
 悪寒がする。まるで、見えざる無数の蜘蛛が肌の上を這い回っているかのように。
 びりっ!
 渾身の力を込めて、彼は紙片を引き裂いた。描かれた蜘蛛の紋章が、中央から二つに分たれる。
 消えろ。消えて無くなれ。無くなってしまえ。
 裂いた紙を重ねて、今一度真っ二つに千切る。
 四つに。八つに。十六。三十二。
 ひひっ――という箍の外れた笑いが、唇の端から洩れ出でた。
 指でそれ以上引き千切れなくなったところで、彼は力任せに腕を振るう。文字通りの紙吹雪と化した紙片が、コンクリートの床にばら撒かれた。
 地下道を吹く風に攫われて、書簡のなれの果てはみるみるうちに通路の奥へと散っていく。
「はぁ――はぁ――」
 身をかがめて両膝に手のひらを置き、竹村は肩で荒い息をついた。
 ひと呼吸ごとに、脳髄の熱が冷めていく。衝動を行為にしてしまったことで、彼の精神は幾分かの平静を取り戻していた。
 ――ああ。
 ――何をしているのだ、儂は。
 先程までとは異なる不安が、胸の奥底で鈍く疼く。
 こんな姿を誰かに見られたならば、紛いもなく不審の念を抱かれよう。
 加えて、たった今千切って撒いた脅迫状が拾われて、繋ぎ合わされでもしたならば――
 おそるおそる、彼は周囲にまなざしを巡らせた。
 地下道には、誰もいない。人の姿は見えない。
 竹村は思わず、安堵に胸を撫で下ろした。ああ、幸運だった。たった今の己の狂態は、どうやら誰の目にも入っていなかったようだ。
 そう。

 地下道には、誰も、いない。

「…………?」
 そこで初めて――違和感が、竹村の脳裏をかすめた。
 ――なん――だと?
 目の前に広がるのは先程までと変わらぬ、人気のない地下通路の光景。
 立ち入り禁止の立札。天井で明滅を繰り返す蛍光灯。壁際のコインロッカー。少し離れたところに、飲食街の看板。
 ああ、しかし。

 誰も、いない。

 竹村の周囲だけではない。地下鉄銀座線改札の方向――先程までは多少の人通りが見られたはずの通路の先にも、いつの間にかひとつの人影すらも見受けられなくなっている。
「お――おい」
 誰にともなく、竹村は呼びかけた。辺りを覆いつくす、不自然なまでの静寂に耐えかねて。
 だがしかし、無論応える者はない。ひんやりとした薄闇の中に、竹村の声はただ呑まれて消える。
 妙だった。明らかに妙だった。
 人の姿が見えぬばかりか――人の気配というものがまるで感じられないのだ。
 ざわめきも、足音も、地下鉄のアナウンスすらも聞こえてはこない。あたかも竹村のいるこの空間が、人の住む世界から切り取られてしまったかのごとく。
 遠くに見える飲食店街の看板も、スクリーンの向こうに映る風景のようにどこか現実味を欠いていた。
 ――何だ? これは――
 額の冷や汗を拭いながら、竹村は歩き出そうとした。ひとまずは、先程通った地下鉄駅の方向へ。
 何処でもいい、誰でもいい。避けてきたはずの人の流れに、今は交わりたかった。
 が、しかし。
 彼が足を踏み出さんとした、その刹那。地下通路を、一陣の風が吹き抜ける。
「うっ……!」
 竹村は思わず、呻きの声をあげた。
 通路の向こうから飛ばされてきた紙切れが、顔に貼りついたのだ。
「この――」
 癇癪めいた怒声とともに、紙切れをむしり取り――
 そこで竹村は、息を呑んで凍りつく。

 蜘蛛が。

 紙の上には、青いインクで印刷された毒蜘蛛。たった今破り捨てたはずの印章の蜘蛛が、亀裂から這い出でんと六本の足を広げているではないか。
「ひ――ひぃっ!!」
 もはや、平静を保つのは不可能だった。掠れた悲鳴をあげて紙を投げ捨てると、彼は衝かれたように走り出す。コインロッカー脇の、狭い階段を目掛けて。
 ――地上だ。
 とにかく地上へ出るのだ。街へ。雑踏溢れる、陽光の下に。
 追ってくる。蜘蛛が。過去という名の閉じ匣(ばこ)から這い出した忌まわしき毒蜘蛛が、儂の現在(いま)を絡めとらんと、喰らい尽くさんと追いかけてくる。
 コンクリートのこの迷宮は、奴の巣倉なのだ。逃げねばならぬ、逃げねば――
 とりとめもない妄想が、膨れ上がりながら脳裏を巡る。目に落ちかかる汗の滴を拭いもせぬままに、竹村はただ階段を駆け上がった。
 と――
「な――うあっ!」
 踊り場を曲がったところで、彼は驚愕の叫びをあげる。
 狭い階段を塞ぐように、佇む影があったのだ。
 動転していた竹村は、正面から相手の胸板にぶつかってしまう。
「つ――あ――お、おい、あんたっ」
 片手で鼻先をおさえながら――それでも竹村の声には、抗議よりも安堵が色濃く浮き出ていた。人だ。ああよかった、人がいる。
「済まない、慌てていたものでつい――」
 取り繕うように発した竹村の言葉に、相手は答えなかった。
 地味な色合いの背広を纏った、初老の男だ。おそらくは、自分と同じ位の年代だろう。
 どっしりとした団子っ鼻と、受け口の気味の分厚い唇。だぶついた頬の肉――
 ――……!?
 その面立ちに、竹村は見覚えがあった。
 記憶の中にある相貌とは、勿論大きく変わってはいる。もう数十年にわたって顔を合わせたことはなかったのだから、無理もないことだ。
 だが、忘れようはずもない。
 同じ過去を。そして、同じ罪を共有するかつての同胞の顔を。
「……定岡、か?」
 呆然と、彼は旧知の男の名を呟く。
 男は――定岡 毅(さだおか つよし)は、答えを返さない。ぼんやりとした、どこか虚ろな表情で、無言のままじっと竹村を見下ろしているばかりだ。
 刹那、竹村の胸中にはどす黒い憤怒の炎が巻き起こった。
「貴様……っ」
 この男だったのだ。脅迫者は。蜘蛛の紋章を知る、数少ない人間のひとり。
 数十年前――東京を離れるとき、竹村たちは互いの行き先を教え合うことをしなかった。
 今後いかなることがあろうとも、他のメンバーの人生には干渉を行わない。偶然に出会うことがあっても、知らぬふりをして行き違う。過去を抹消し、東京での数年間のことは生涯誰にも洩らしはしない。互いの保身の為に固く誓った、それが約定であったのだ。
 それを、それなのに。
「どういうつもりだ、貴様!」
 あらん限りの怒声を、竹村は喉から迸らせた。
 思えばこの定岡は、あの時分から要領の悪い男だった。メンバーの中で一番歳が若かったこともあり、遣いっ走り以上の役目を任せられることは皆無に等しかった。
 そんな彼ゆえに――あの時に五人で分け合った莫大な金も、有益に活かすことなく使い切ってしまったのだろう。
 そして……おそらく定岡は、偶然に何処かで自分の名を知ったのだ。近県の県議として富と地位とを握った、竹村 重雄の名を。
 かつての同胞として金銭の援助を請うつもりだったのか。それとも、棄て去った過去をネタに恐喝を働くつもりだったのか。
 どのような意図だったにせよ、かようなやり方で自分を誘い出した痴れ者を、竹村が益してやる義理はなかった。
「たかりの真似か? 小賢しいことをしおって――いいか、貴様ごときにくれてやるものなぞ、鐚(びた)一文とてありはせんわ。
 行け。消え失せろ。今すぐ踵を返して二度と儂の前に現れなければ、今度ばかりは赦してやる」
 低く抑えた声に灼熱の怒りを孕ませて、竹村は段上の定岡を睨みあげる。
 答えは――沈黙だった。
 相も変わらぬどこか朦朧とした顔つきで、定岡はぼんやりとそこに佇むばかり。
 愚鈍そうなその無反応が、竹村の怒りに決定的な油を注ぎこんだ。
「この……下衆がっ!!」
 眦が裂けんばかりに眼を見開いて、竹村はかつての同胞に踊りかかる。
 このような男を生かしておいたのが、そもそもの間違いだったのかもしれぬ。
 誓いを破り秘密を露見しかねぬような馬鹿者は、企みに加えるべきではなかった。あの日、あの夜に、土の底へと埋めてしまえばよかったのだ。そう。あいつらと、同じように――
 定岡の襟首を、竹村は掴みあげた。
 人が通りがかるかもしれないなどという懸念は、既に頭から消し飛んでいる。眼前のこの痴れ者を、ともかく泣き叫ぶまで殴ってやらねば気が済まなかった。
 が、しかし――
 拳を振り上げたところで、竹村は動きを止める。
 我に返ったからではない。
 訝しげに感じたのだ。メンバーの中でも一番の小心者であったはずの定岡が、怒鳴られても掴みかかられても、眉ひとつ動かしはしないことに。
 襟首にかかった竹村の指が、定岡の肌に触れた。
「…………!?」
 予期だにしなかった、その感触に。粘土にでも触ったかのようなひんやりとした冷たさに、竹村は息を呑んで腕を引く。
 と――それを拍子に、定岡の身体がくるりと回った。
 回った?
 そう。回ったのだ。踵ひとつ動かさぬまま、音ひとつたてることなく。
 竹村は、ようやくにして気が付いた。
 眼前に佇んでいると思っていた、定岡の身体。革靴のその両足が、階段から微かに浮いて離れていることに。
 定岡が……宙に、浮いている。
 浮いている?
 否。違う。浮きあがっているのではなく――
「――! ――!!」
 凍てつく電流が、竹村の背筋を走り抜けた。
 見えたのだ。
 糸が。
 あたかも蜘蛛の糸を思わせる澄んだテグス糸が、ぴんと張り詰めて伸びている。
 天井から――定岡の、首に。
 吊られているのだ。彼は。細い糸で首を括られ、通路の天井から竹村の目の前にぶら下っているのだ!
 ぎぃ……
 軋んだ音とともに、定岡の身体が微かに上昇した。巨大な振り子よろしく左右に揺れながら、屍はまたゆらりと旋回する。
 呆然と凍りついたまま、竹村は再び定岡と対面した。
 虚ろな双眸。土気色の頬。半開きになった分厚い唇。そうだ、これは無表情などというものではない。
 定岡の顔が形造るは、紛いもなき――死相。
「ひ――」
 掠れた声を洩らしながら、竹村は首を横に振った。眼前に繰り広げられる光景はもはや、完全に理解の外にある。抑えることも叶わぬ恐怖と混乱のみが、ただ胸中を満たしていく。
 ここは、地下鉄駅の通路ではないのか。雑踏に溢れる街路の、わずか数メートルの直下。いつ通行人があるやもわからぬ、公の場ではなかったのか。
 だがしかし、相も変わらず辺りに人の気配はない。眼前の怪異を慄然と見つめるは、ただただ竹村ひとり。
 嗚呼、嗚呼。摩訶不思議なる、悪夢の如き絞首刑!
「ひぃいぃぃいぃいいっ!!」
 悲鳴をあげて、竹村は踵を返して階段を駆け下りる。
「誰かっ! 誰か来てくれぇぇぇっ!!」
 通路に戻ると同時に、あらん限りの声で助けを呼んだ。
 だが、絶叫は空しくコンクリートの洞にこだまするばかり。依然として、駅に向かう地下街には人の姿は見受けられない。
 立ち竦んでいる暇はなかった。
 定岡を縊り殺した何者かは、まだこの近くに潜んでいるはずだ。そしてそれは、竹村にかの脅迫状を寄越した人間に間違いなかった。
 狙われている。自分の命も。
 ――誰だ――
 息を喘がせて通路を走りながら、竹村は再び問いを繰り返す。一体、誰が何のためにこんなことを――
 毒蜘蛛の紋章を知る者達。あの日に東京を離れた、メンバーの誰か。
 わからない。たとえ誰であるにせよ、定岡や自分の命を狙う理由はあるまいに。
 共有する過去を、この世から完全に滅し去ろうとでもいうのか。
 いいや、違う。それは違う。
 秘密を秘密のままにしておきたいのであれば、あの時の誓いを生涯守りぬくだけでよいはずだ。今更他のメンバーに接触し、ましてや殺害によって口を塞ごうとするような危険を冒そうとは誰も思うまい。
 答えは出ない。竹村は走る。足音だけが地下道に響く。
 誰だ。だとすれば、誰なのだ。埋め去った過去を、かようなやり方で掘り起こさんとしているのは。
 埋め去った、過去。
  深く、
   土の、
    底へ、
   ――高柳――
「――――!」
 再び脳裏を掠めたその名前に、竹村の心臓が縮み上がる。
 そう。
 彼ならば。
 毒蜘蛛の紋章を有し、そして自分たちに底知れぬ怨嗟を抱いているであろう、あの男ならば――
 ――ええいっ、よさんか馬鹿者がっ!
 膨れあがる恐怖を、竹村は一喝する。
 怯えのあまり気でもふれたのか、竹村 重雄。
 高柳は、もうこの世にはいない。あの男の死は、自分も確かに見届けたはずだ。
 あの夜に。あの雨の夜に――
 食堂街が近づいてきた。
 店に駆け込んで、ともかく警察を呼ぶのだ。定岡と自分の過去の結びつきを知る者はいない。偶然の死体発見者を装えば、疑われる怖れは微塵ほどもあるまい。
 おかしなことを考える暇があったら、とにかく今は走れ、走れ。

『そうだ――ひひひっ、走れ走れ――』

「――な!?」
 竹村は、狼狽の叫びをあげた。
 何だ、今の声は。
 空耳ではない。断じてない。嘲笑の色を孕んだ、甲高い声色。
「だ、誰だ――ぁあっ!」
 思わず発した誰何の声は、そのまま悲鳴へと転じる。
 足を。地を蹴らんとした竹村の足首を、何者かが強い力で捕まえたのだ。
「ぁ――うあ――くぁっ」
 全力疾走の足をとられたのだから、たまったものではない。前方によろけた竹村は体勢を立て直すことも叶わず、通路に倒れこんだ。横壁に肩をぶつけ、通路の床に額と鼻を打ちつけ、冷たいコンクリートの上に這いつくばる。
「ぅ……」
 苦痛の呻きをあげながらなんとか半身を起こし、竹村は背後を振り返った。
 何だ、今のは。自分は何に躓いたのだ。
 だが無論、足を引っかけるようなものは見受けられない。そこにはただ平坦な石畳が、通路の奥へと続いているばかりだ。
 竹村は、己の右足を見た。そこにまだ、今の感触が残っているような気がする。
 そう、まるで見えざる手に足首を掴まれたかのような――

 ……とんっ。
 
 唐突に。
 竹村の両肩を、誰かの手のひらが叩いた。
 後ろから。人など立っていようもない、背後から。
「――ひ!」
 反射的に肩口へとまなざしを向け、竹村はそのまま息を呑んで凍りつく。
 手。
 肩の上に、誰かの、手が、置かれている。
 真っ黒な手袋を嵌めた……指の長い手だった。
 同じ色の長袖を纏っており、一見では年齢も性別も定かではない。
 動けない竹村の肩から離れ、一対の手は存在を誇示するかのごとく竹村の眼前で指を動かす。
 その様はまるで、独自の意志を有した生き物のように見えた。そう、あたかも――
 獲物を捕らえんと蠢く、蜘蛛の脚のように。
「だ……誰だ」
 震える声で、竹村は問う。
 応えは――ひひっ……という乾いた嗤いの声だった。
 短く息を搾り出しただけの。だがしかし、底知れぬ悪意と愉悦とを凝縮した、耳障りな声色。
「た――助けてくれっ」
 額にびっしりと汗を浮かべて、竹村はひきつった叫び声をあげた。
「か、金ならくれてやる。いくらでもくれてやるから――」
 三文芝居の悪代官とて口にしないであろう、あまりにも月並みな懇願。だがしかし、言葉を探し選んでいるゆとりなど、今の竹村にあろうはずはなかった。
 襲撃者は、答えを返さない。
 沈黙が何よりの恐怖をもたらすことを、知ったうえでの沈黙だ。
「誰だ――誰なんだ、お前はっ!?」
 もう幾度めになるか判らぬその問いを、竹村はもう一度繰り返す。口を噤んだままでいると、このまま気がふれてしまいそうだった。
「三島か? 藤堂? 御子柴か?」
 応えは、なおも沈黙だった。黒い手袋の指は、竹村の眼前で不気味に蠢くばかり。
 ごくり、と、竹村は唾を飲み下した。
「た――高柳――か?」
 震える唇で、その名を紡ぐ。今は世に亡きはずの、ひとりの男の名を。
 と――
 襲撃者の腕が、動いた。
 片方の手が竹村の肩に置かれ、もう片方の手が顎を掴む。
「ひっ!」
 ゆっくりと。されど、抵抗を許さぬ強い力で。手は竹村の首は捻っていく。知りたくば、己の目で見てみよといわんばかりに。
 抗うこともできず、竹村は背後を振り返り、そして、
「――! ――!!」
 今度の悲鳴は、声にすらならなかった。
 裂けんばかりに見開かれた目で、彼はただ見据えるばかりだ。己の眼前に現出した、信ずるべからざる光景を。
 結論から言えば、竹村は相手の貌を確かめることはできなかった。
 何故なら。
 そう、何故なら――

「うあぁあぁあぁあああああっ!!」

 4月15日、午後3時02分。
 地下鉄浅草駅の地下街を通りがかった数多くの人間が、奇妙なその声を耳にした。
 老いた男性のものと思しき、驚愕と恐怖に彩られた叫び。絶叫はコンクリートの地下通路にこだまして、銀座線の改札近くにまで届いたという。
 ただならぬ様子に、駅員や食堂街の店員をを含む幾人もの人間が、悲鳴の聞こえた方向へと駆けつけた。食堂街の外れ、松屋デパートへの出口階段付近に。
 が、しかし――
 彼らは、何を見つけることもできなかった。
 地下街の通路にも、地上に抜ける階段にも。
 悲鳴の主と思われる人間も、何らかの事件の痕跡も、見受けられはしなかったのだ。
 地上の交番から警官が訪れて念のため周囲を捜索したが、結果は同じだった。そこにはただ普段と変わらぬ、うら寂しいコンクリートの地下通路があるばかり。
 結局のところこの騒ぎは、誰かの質の悪い悪戯として片付けられるほかはなかった。

 ★

 地下鉄浅草駅の椿事より、数日の後――
 ひとつの不可解な失踪事件が、ごく小さく新聞の地方面に掲載された。
 失踪者は、神奈川県にて県議会議員を勤める、竹村 重雄。4月15日の昼前、誰にも告げずに家を出て、そのまま戻らなくなったという。
 東京方面に向かう私鉄のホームにて、彼によく似た人物が立っているのを知人が目撃しているが――それ以上の手がかりは、現在のところも皆無である。

 また、事件としてこそ取り扱われなかったものの、同じ時期に一通の捜索願が東京都板橋区の警察署に提出されている。
 地元で小売店を営む男性――定岡 毅が、突如として消息を絶ったのだ。
 同店店員の話によれば、数日前より何事かに考え悩んでいる様子であったという。しかし、当人の口から事情を聞いた者はおらず、失踪の原因は謎に包まれたままであった。

 無論、地域を違えたふたつの失踪事件を結び付けて考える者などは、誰一人おりはしなかった。
 まして、それが浅草駅の小騒動と関わりを持つと疑ったものなど、あろうはずもない。
 だがこれは……確かに始まりであったのだ。
 翌月の東京において衆目を集め、奇怪にして凄惨なるやり口で人々の心に影を落とした、あの連続猟奇殺人事件の。
 失踪者ひとりである、竹村 重雄。
 彼の名が思いもかけぬ形で再び新聞紙面を賑わせるのは、この日より数週間を過ぎてからのことである。




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