〜第六幕〜 廻り始める歯車






 洗面器のなかの石鹸ケースが、一歩を歩くごとにかぽんかぽんと音をたてる。
「はふうううぅ」
 吾妻橋の上をてくてくと歩きながら、つばさは至福のかたまりのような息を洩らす。
 お風呂屋さんの帰り道。隅田川の上にかかる朱塗りのこの橋をわたる時間が、いつだってつばさは大のお気に入りだった。
 川面をわたる風が、長湯にほてった頬にここちよい。
 視界の先では浅草の街が、淡い夕映えに染まっている。穏やかなその景色に思わずつばさは大きな瞳を細めた。
「……奇麗、だねえ」
 唇が自然と、短く小さな呟きを紡ぎだす。
 この街に、東京は浅草にやってきてから、実はあまり長い時間が経っているわけではない。五年前――母が亡くなるまでは、日本海側の小さな田舎街に住んでいたのだ。
 けれども、にもかかわらずつばさはこの浅草を、生まれたときからの故郷のように感じていた。
 好きだった。夕暮れに映えるこの街が。古いものも新しいものも、全てをやさしく包み込んでくれそうなこの街が。
 朱い欄干の向こうには、ゆるやかに流れる隅田川。水面の上を、水鳥たちが大きな弧を描いて飛び交うのが見てとれる。
 そしてその川岸に、先程さんざん千絵に連れ回されて、彼女いわく『ワトソン役』をさせられた遊歩道が通っていた。
 ――ちえちゃん、ほんと好きなんだなー、ああいうの。
 虫眼鏡持参だったところを見ると、はじめからこちらを巻き込んで遊歩道を見に行くつもりだったらしい。『捜査』をしているときの真剣な横顔を思い出して、つばさは思わずちいさな笑みを浮かべた。
 立ち入り禁止が解かれたばかりなのに、歩いている人の数は十人や二十人ではきかない。もしかすると千絵とおなじで、事件に興味のあるひとたちなのだろうか。
 ――そういえば、赤城くんは何しにきてたのかなあ……
 心の中で何気なく呟いてしまってからつばさはふと我に返り、きょとんと大きな瞳を見開いた。
 なんだろう。なんでこんなことを考えているのだろうあたしは。
 慌てて考えの流れを止めようとしたが、もう遅かった。先程の一連のシーンが、早送りのフィルムのように脳裏をめぐる。
 気が付くとつばさは立ち止まって、自分の手首に視線を落としていた。掴まれて引き起こされたときの感覚が、まだそこに跡になって残っているかのようだった。
 ――力……強いんだなー、男の子って。
 お風呂の上気が冷めかけた頬が、またほんの少しだけ熱くなる。ちえちゃんが変なことを言ってからかうからだ――と、つばさは動揺の責任を友人になすりつけた。
 千絵の言うような『一目惚れ』などというものとは違う。そうだ。好きになったとか、そういうものではない。ないったらない。
 ただ――なんとなく気になったのだ。
 どう言えばいいのだろう、前に夢に見た場面を現実で見て、「あっ」と思ったときの感じにも似ている。ずっと前から会うことになっていた人間と出会ったような。
 いや、それこそが一目惚れなのだと言われてしまえばそれまでなのだが――
「――ちがうちがうっ」
 ぶんぶんと頭をふって、否定の声をあげる。
 あげてしまってから気がついた。ここは人通りのある橋の上だ。見回すと、偶然通りがかった人々が数人、あっけにとられたように自分のほうを見ているではないか。
「はわわわっ。ち、ちがうんですっ、すみませんっ」
 今度こそ正真正銘に真っ赤になって、つばさはしどろもどろに言いながら頭を下げた。お風呂セットを胸に抱えて、大急ぎで走り出す。
 橋を渡り終え、神谷バー前を過ぎ、雷門から道を隔てた角を曲がった。小道にはいって人通り途絶えたところで、つばさは塀に寄りかかるって大きく息をつく。
 ――うううっ。なにやってんだろあたしっ。
 胸に抱えた洗面器にこつん、とおでこをつける。恥ずかしいといったらありはしない。
 とくんっ。とくんっ。とくんっ。
 Tシャツの胸の奥で、心臓がいつもの倍の速さでリズムを刻んでいる。
 顔をあげて、つばさは上を見上げた。
 人っ気のない、昔ながらの住宅街の裏路地。両側の塀に切り取られた空は、刻一刻と夕から夜に転じていく。淡い藍色の中に一番星が灯るまで、ほんのあとわずかだろう。
 とくんっ。とくんっ。とくんっとくんっとくんっ。
 心音は収まらない。それどころか、逆に早さを増していくようにすら思える。
「――あ――」
 そこで初めてつばさは、己の身体の中に生じた異変に気づいた。
 全身が、ほのかに熱い。まるで、身体の中を流れている血の温度がだんだんと上昇していくかのように。
 腿とふくらはぎの筋肉が、細かに震えている。
「……な――なんでっ?」
 思わず唇にのせた呟きは驚愕ではなく、むしろ困惑に彩られていた。つばさにとってこの変調――発作といってもいいかもしれない――は、幼い頃から幾度も経験してきたものだったからだ。
「くぅぅ――うっ……」
 じんじんと身体を巡る疼(うず)きに、つばさは思わず震える胸と腕で洗面器をきゅっとかき抱いた。
 わかっている、これがどういうものなのかは。
 『力』が――常日頃より、うかつに使ってしまわないように抑え込んでいる『力』が、限界を越えて溢れようとしているのだ。
 これまでも、同じようなことはたびたびあった。そのたびにどこか人知れぬ場所で、こっそりと発散を行ってきた。自分の持つ『力』を、他人に知られるわけにはいかなかったからだ。だが――
 ――どうして――こんな急にっ……
 こんなのは初めてだった。何の前触れもなく、大きな『力』の脈動に襲われるのは。
 思わず目を閉じると、瞼の裏に映像が浮かんだ。つい先程経験した、そしてつい今しがたも頭の中で反芻したばかりのシーン。
 隅田川の川岸での、赤城 仁矢との出会い。
 わからない。何故こんな場面が脳裏をよぎるのか。ただ、心臓がひときわ大きく身体の中で跳ねあがる。
 頭が変になってしまいそうだった。なんだろう。どうしてしまったのだろう、あたしは。
「……たすけてよぉ……」
 唇から洩れた声は、自分のものとは思えないくらい弱々しかった。
 助けて。そんなことを言っても、救ってくれる者があろうはずもない。母と祖母とを亡くして以来、『力』の存在を知る人間はおりしないのだから。
 だから――つばさは独りで、自分の中に眠る未知の能力と向きあっていかなくてはならなかった。
 大きく息を吸い、そして吐き、ゆっくりと歩き出す。黄昏の路地を、家とは異なる方向へ。
 この先に、区立の公園がある。面積のわりにほとんど人の往来がないうら寂しい公園。
これまでも『力』が溢れそうになってときの発散のために、つばさは幾度かその場所を使ったことがあった。
 見上げた空に、低く飛び交う蝙蝠(こうもり)の影がよぎる。
 つばさは歩調を速めた。
 むろん――彼女はこのとき、気づいてはいなかった。
 ゆっくりと、しかし着実に回り始めた運命の歯車に。そして――
 先程から自分の背後で微かに響いている、地を這う鱗の音にも。


 わだかまる夕闇の中を縫うように、一匹の蛇がアスファルトの上を這い進んでいた。
 表通りの喧騒も遠く届かない、うら寂しい路地。確かに、蛇が出ても場違いとはいえない雰囲気ではある。
 だが、その蛇の動きは明らかに自然なものとはいえなかった。
 急ぎ足で路地を歩む、ひとりの少女。彼女の背後を、それは一定の距離を保って移動しているのだ。
 少女が立ち止まれば、動きを停めとぐろを巻いて様子をうかがう。少女が歩き出せば、ゆっくりと身体をほどいてまたその後を追う。瞳孔の細く開いた爬虫類の眼で、じっとその足元を見据えながら。
 まさしくそれは、尾行を行うものの所作だった。
 だが、何故に。どんな理由があって、一匹の蛇が執拗に人間の後を追わねばならないのか。
 さきの少女は、この奇妙な尾行者のほうを振り返る様子はなかった。
 たとえ振り返ったとしても、気づくことはできないかもしれない。褪(あ)せかけた茜と淡く燈る街灯の織り成す薄闇の中に、黒い鱗に覆われたその姿はひっそりと溶け込んでいたからだ。
 いくつかの角を曲がった後で、少女は旧い住宅街の合間に開けた公園の入り口の前で立ち止まった。錆びたフェンスの向こう――影絵のように広がる樹々の群れを見つめ、澄んだ瞳に微かな安堵の光を揺らす。彼女は門の中に足を踏み入れた。
 黒い蛇もまた、しばしの合間をおいて彼女の足どりを追う。
 ――その時だった。
 西日に長く伸びるひとつの影が、すうっ……と進路の上を覆ったのは。
 本能で違和感を悟ったのか、蛇は頭をもたげて前方を見上げ――そして、電流にうたれたようにぴくりと身を竦ませた。
 見えたのだ。自分の首元に向かって伸びてくる白い手が。優雅とすら言ってもいい動きで差し出された、細くしなやかな指が。
 逃れる暇はなかった。指はごく自然な仕草で、花でも摘むように蛇の首を挿んでいた。
 さきの少女ではなかった。紅い逆光に縁取られた身体の影は、少女のものよりもさらに小さく、そして細い。
 蛇は激しく身をくねらせた。恐慌に陥るのも無理はない。人間を上回る本能をもってしても、唐突に目の前に現れた気配を察することができなかったのだ。
 謎の影はゆっくりと立ち上がると、掴んだ蛇の頭を自分の顔の前に運んだ。おちつきはらったその動作に、恐れている様子はわずかたりとも感じられない。
「――聞こえているのだろう? 《蛇使い》」
 声が紡がれた。
 朗々と――そんな形容の似つかわしい、涼しげに澄みわたったアルト。稚さと知性、凛々しさと艶という相反する要素を併せ持った、それは不可思議な声色だった。
「ずいぶんとあからさまな尾行じゃないか。先週の川岸の派手な事件といい、つつましさと言うことを知らない性質のようだ。名刺をばら撒いて歩くのが趣味なのかね?」
 静かな口調の中に鋭い皮肉を交えて、影は言葉を続けた。
 奇妙な光景ではあった。夕闇の落ちた人通りのない路地。どう見ても幼子の域を出ない小さなその人影は、手に持った蛇に向けて語りかけているのだ。それも、背格好に見合わぬやけに古めかしい言葉遣いで。
「だが、あいにくこの浅草は僕らの膝元でね。これ以上いいようにさせはしないし、君には気の毒だがあの娘も渡すわけにもいかない。憶えておきたまえ」
 それだけ言うと、影は指の戒めを解いて地面に蛇を落とす。
 蛇は鋭く細めた眼で一瞬だけ、尾行を妨げた謎の影を見上げた。だが、得体の知れぬ対抗者に歯向かう術はないと悟ってか、ふいに弾かれたような速さで路地の向こうへ消えてゆく。
「……やれやれ」
 肩をすくめ、人影は振り返った。先程の少女はもはや、公園の奥に姿を消してしまったようだ。
「相手があそこまでこれ見よがしなんだ。京一郎たちも、そろそろ手がかりの一端くらいは掴んでほしい頃合だがね」
 あいも変わらず古風で芝居めいた――だがどこか悪戯っぽさをも感じさせる呟きとともに、影は公園の門を潜る。
 足音は徐々に遠ざかり――
 あとにはただ、電気の切れかけた街灯がぼんやりとした闇の中に明滅しているばかりだった。




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