張りつめた、しばしの沈黙が部屋の中を支配した。 息が詰まりそうな空気の中にただ、床をゆっくりと這う蛇たちの鱗の音だけが響いている。 「間違って結界(パノラマ)に入り込んだ――というふうには見えぬの。もう一度聞こう、何者じゃ?」 老人の再度の問いを、仁矢はまたも黙殺した。眉のひとつも動かさず、まるで答える義理はないとでも言わんばかりに。 そして――床一面の蛇の海に、彼は平然と足を踏み出した。 ――あ、あぶないっ! 腕を戒められているので目を覆うこともできず、つばさは息を呑んだ。 だが仁矢は何もない床を歩くかのように、蛇の合間を縫って黒衣の老人に迫る。 老人がさっと身を固めるのが見えた。だが仁矢はこともなげにその横を通り抜け、そして―― 「え――えええっ!?」 つばさは狼狽もあらわに声をあげていた。またたくまに歩み寄ってきた仁矢に、ひょいと首の後ろに腕を回され、抱き起こされたのだ。 鋭い仁矢のまなざしが、ほんの数十センチの目の前にある。こんな状況にもかかわらず、頬にかぁっと血が昇った。 「き――貴様っ!」 半ばあっけにとられていた老人が我に返って怒りの声を発したのは、ちょうどその時のことだ。それに応じるかのように、つばさに絡みついていた蛇たちがしゃああああっ! と牙を剥く。 つばさは思わずびくりと身を震わせた。危ない、赤城くん――噛まれちゃうっ!! だが、その言葉が声になるより早く―― 空いた仁矢の右腕が、振り降ろした真剣さながらのスピードでつばさの身体の上を滑った。 「――え――?」 つばさはぽかんとした声をあげて、自分の身体と仁矢の顔を交互に見やる。 縛めが、ひとつ残らず解けていた。 あれほど幾重にも手足に巻きついていた蛇たちが、力を失ってぽとぽとと床の上にこぼれ落ちてゆく。それが仁矢の手刀によるものであることに気づくのに、ゆうに数秒がかかった。 「あ――えーと、えーとっ……」 「邪魔になる。その辺に隠れてろ」 驚きと混乱のあまり助けられたお礼も言えないつばさを、仁矢が必要最小限の言葉で制する。 思わずこくこくとうなずいた、その瞬間―― つばさの身体は、ふわりと宙を舞った。 くるりと部屋の風景が回る。山と詰まれた教材の上を飛び越えて、教室の奥に置かれたロッカーの前に。 「うわわぁあっ!」 つばさは慌てて着地した。自分で跳んだのではない、こともあろうに、仁矢が無造作に放り投げたのだ。もう少し反応が遅れれば、そのままロッカーにぶつかっていただろう。 「ちょ――ちょっとっ。いまのはないんじゃないかなっ?」 軽い抗議の声をあげるつばさに、しかし仁矢は動じる様子もない。 「……軽業の『力』があるんだ。何とかなるだろうが」 「そりゃまあ、そうだけどさっ……え? えええええっ?!」 つばさの呟きは、途中で驚きの叫びに変わった。 「ちょっと待ってっ。何で赤城くんが『力』のこと知ってるのっ!?」 「……『茜桟敷』の一員じゃから、じゃな」 答えたのは仁矢ではなかった。しばし沈黙していた黒衣の老人が、昏いまなざしを仁矢に向けたままそこに佇んでいる。 「あかねさじきっ?!」 なおも黙っている仁矢にかわって、今度はまたつばさがすっとんきょうな声をあげた。 茜音と、茜桟敷と、黒衣の怪老人と――そしていま目の前に立っている赤城仁矢。昨日の夕方から自分の回りをぐるぐると取り巻き始めた見えない糸が、思いもかけない形で結び目を作ったのだ。驚くなというのが無理というものだった。 「ね、ねえっ。ほんとなの? ほんとに仁矢くん、茜音さんの仲間なの? 『茜桟敷』のひとなのっ?」 思わず矢継ぎ早に問いかけるつばさを、仁矢は横目でちらりと睨んだ。 「……黙ってろ」 「――う」 低く呟いたその一言の迫力に圧されて、思わず口をつぐむ。 仁矢はちいさく肩をすくめて息をつくと、険しいその視線を老人に戻した。 仁矢と黒衣の老人、二つの視線が冷たくぶつかり合う。 こうなるとつばさにはもう、口をはさむことはできなかった。できるのはただ、おそらくは自分の運命が賭かっているこの対峙を息を呑んで見つめることだけだ。 仁矢はただ、黙って佇んでいる。両の手を無造作にポケットに突っ込んで――それなのに、まるで時代劇の中で刀に手をかけた侍のような雰囲気だ。 足元にうごめく蛇の群れを気にかける様子もなく、彼はただじっと黒衣の老人に鋭いまなざしを向けている。 おなじ一年生だと、千絵は言っていた。そんなことは信じられないくらい、自分よりも、クラスの中の誰よりも大人びて見える。 鼓動が早まるのは、緊張と恐怖のせいだろうか。つばさは思わず胸のリボンのあたりをきゅっと掴んで、こくりと大きくつばを飲み込んだ。 「……知らなかったのか? あんた」 仁矢が老人に投げかけた低い言葉が、張りつめた場の沈黙を破る。 「何のことじゃね?」 訝しげに眉をひそめる老人に、彼は相も変わらず不機嫌そうに口を開いた。 「『茜桟敷』の人間がこの学校にいるってことをだ。 知らなかったんだとすればあんた相当の間抜けか、それともあんたを使ってる人間に見捨てられてるかのどっちかだぜ」 皮肉や挑発の色を含まない――だがそれだけにかえって容赦のない口調。怪老人はその眼に怒りをみなぎらせ、口元だけの笑みでそれに応えた。 「言うてくれるわ。なるほど、確かに知っておれば見張りの蛇を残しておいたものをの。わしの油断じゃよ。 じゃが――お前ひとりが来たところで、千を超えるわしの蛇たちを何とする? 狩る相手がひとりからふたりに増えただけじゃよ。違うかの?」 「あんた、少しばかりばかり思い違いをしてるぜ」 仁矢は、やれやれとばかりに軽く肩をすくめた。 「――ほう?」 「この学校にいる茜桟敷は、俺ひとりってわけじゃねえ」 彼の言葉が部屋の中に響いた――その瞬間だった。まさにそれに応えるかのように、 「いやぁ、ごめんごめん仁矢くん。通信は受けてたんだけど、英語の授業がなかなか終わってくれなくってねぇ」 場違いなまでに陽気な声が、廊下のほうから聞こえてきたのは。 つばさは反射的に、部屋の戸口にまなざしを向けた。廊下からの逆光を背に受けて、そこには背の高い人影がひとつ―― 「遅いぜ、若槻先輩」 視線は目の前の相手から外すことなく、仁矢が溜息の混じりの声で呟いた。 ――……わかつき、せんぱい……? つばさはまじまじと、その人影を見やった。 ひょろりとした長身に制服をまとっているところから、この中学の生徒であることは判る。 底抜けに呑気そうな、というのが第一印象だった。 無造作に伸びた前髪に隠れて、瞳の表情は見えない。だが口元に浮かべているのはこの場にそぐわぬ、いまにも鼻歌でも歌いだしそうな微笑だ。 「うわ、こりゃすごい。足の踏み場もないね」 彼はおっかなびっくりといったふうに蛇の隙間を縫って部屋に歩み入ると、ひょいと頭を下げた。 「あ、どうもはじめまして。蛇を操る奇術師の方だから《蛇使い》さんとでもお呼びすればいいのですかね。それから――ええと、駒形つばささん」 「え……えーとっ……はあ」 あまりに軽い彼の口調に、つばさはかなり戸惑いがちに返事を返す。若槻と呼ばれた男子生徒はそんなつばさの困惑など気にもかけないように、にっこりと口元に笑みを広げた。 「お互い自己紹介といきたいところだけれど、ちょっとそんな状況でもないね。ひとまずこれじゃ話しにくいし、君の『力』で僕のところまでジャンプしてきてくれるかな?」 「――――」 思わずこくりとうなずきながら、つばさはまじまじと彼の顔を見すえた。 ――こ――このひともだっ…… 若槻というこの男子生徒もまた、あたしのことを知っている。あたしの、『力』の存在を。 なんだろう。あたしの知らないところで、あたしをめぐって何が起こっているんだろう? 「あ、蛇を踏んじゃわないように気をつけてね。そこのおじいさんが怒るから」 「は、はいっ」 脳裏の困惑をよそに、つばさはすっかり彼のペースに巻きこまれて返事を返してしまう。 「……ずいぶんと、好き勝手を言ってくれるものじゃの」 すっかりないがしろにされた形になった黒衣の老人がその時、ぼそりと口を開いた。 「先程のその少年の言葉ではないが――お主ら、なにか勘違いをしてはおらんかね。 蛇たちの中に身を置いたということは、わしに生き死にを握られたも同じということじゃよ。自由に動き回る権利など、あると思うておるのか?」 「いやいや、もちろんわかっていますよ」 陰気な笑みに応えたのは、対象的に陽気な笑みだった。 「あなたはちょっと指図するだけで、僕たちを皆殺しにすることだってできる。でも、だったら逆に駒形さんがそっちにいようとこっちに来ようと、おんなじじゃないですかねぇ。 それとも、仕組みを知らない女の子に抜けられてしまう可能性があるくらいあなたの結界(パノラマ)は脆いんですか?」 「……ふん、言うてくれるわ」 老人は唇を歪めると、大仰に肩をすくめた。 「良いじゃろう、好きにするがいい。じゃが、そのお嬢ちゃんが部屋から足を踏み出したが最後、三人まとめてこやつらの牙の餌食になってもらうぞ」 「結構ですよ――というわけで交渉成立だ。ここまで跳べるね、駒形さん」 ひらひらと手を振る男子生徒に、つばさはちいさくうなずいた。相変わらず状況はぜんぜん理解できないが、彼が仁矢や茜音の仲間で、自分を助けようとしていることだけは確かだ。 教室の端から端までなどなんてことはない。足元の蛇に注意を払いながら、つばさはたんっ! と大きく床を蹴る。蛇の海をひと足に跳び越え、部屋の入り口の前へ―― 「――ひゃっ!?」 その瞬間、つばさは調子っぱずれな声をあげていた。 見えたのだ。もうひとつの人影が、戸口をくぐって部屋の中に入ってくるのが。それもよりによって、つばさが降り立とうとした位置に。 「きゃっ」 小さな悲鳴が耳に入るのと同時に、つばさは真正面から相手にぶつかっていた。 柔らかな感触とともに、クレヨンのようなほんのりと甘い匂いが鼻をつく。ゆっくりと視線をあげると、相手の顔がすぐ目の前に見えた。 女子生徒だ。 つややかなというよりは柔らかな長い黒髪の中に、細面な顔がある。 楚々とした――そんな表現がぴったりの少女だった。 神様が丹精をこめてつくりあげたに違いない、大きな瞳とすうっと通った鼻筋。それでも綺麗さよりむしろ穏やかさを感じさせるのはかすかに下がった眉と、頬に淡く浮いたそばかすのせいなのかもしれない。 「ご、ごめんねっ」 衝突のせいでずれた眼鏡を両手の指で直しながら、彼女は照れたようなはにかみを見せる。 「す、すみませんあたしこそっ」 思わずぺこりと頭をさげたそのとき、相手の制服の胸元に『香春』という名札が見えた。 「せっかくの休み時間なのに、睦さんもご苦労さま。さ、そんなわけでようやく全員集合だ。仁矢くんもお待たせ」 若槻と呼ばれた男子生徒が、あいもかわらぬ飄々(ひょうひょう)とした調子で口を開いた。 「……始めようぜ、とっとと」 先ほどから一言も発さずに老人と対峙していた仁矢が、さすがに待ちくたびれたように肩をすくめる。 「このじじいを縛り上げるころには、休み時間が終わっちまうぜ。俺はともかく、先輩方は授業をサボるわけにはいかないんじゃねえのか?」 「ふん――」 その向こうで、老人が毒々しい笑みを唇の端に浮かべる。 「どこまでその軽口が叩けるものか、とくと見せてもらおうかの。 ……それにしても、茜桟敷にもそんな可愛らしいお嬢ちゃんがいたとは嬉しい誤算じゃな。これは、楽しみがひとつ増えたというものじゃわい」 舐めるような視線が向けられた先はむろん、睦と呼ばれた女生徒だ。彼女が微かに身体を竦ませるのが、側らのつばさにははっきりと判った。 「――ま、ともあれ実戦てやつを始めましょうか。舌戦ってのはどうにも苦手でしてねえ」 場に再び満ちかけた重い緊迫を中和したのは、若槻の声だった。彼はひょいと足を踏み出すと、蛇たちの海のなかをこともなげに歩いていく。仁矢の横に並んだところでこちらを振り向いて、片手で祈るようなジェスチャーを見せた。 「じゃ、睦さん。来たばっかりで悪いけど、駒形さんを護ってあげていてくれないかな」 「――うん」 小さくうなずいて、女生徒――睦は蛇たちからつばさを遮るように、その前に立った。 「あ、あのっ」 つばさは思わず、華奢なその肩に手を触れる。庇ってもらうのが申し訳なくなるくらいに、彼女の雰囲気は繊細で柔らかだった。 このひともなのだろうか。赤城 くんと、若槻という上級生だけでなく――このひとも、『力』を持つという茜桟敷のひとりなのだろうか。 長い髪を微かに揺らして、彼女は振り向く。眼鏡の奥のその瞳にほのかな笑みが浮かんだ。 「恐かったよね――もう、大丈夫だから」 柔らかな――柔らかなのに力強い笑みだった。 部屋の中は蛇で満ちている。仁矢たち『茜桟敷』の三人がほんとうに蛇と老人を撃退できるのか、自分はこれからどうなってしまうのか、つばさには全く見当もつかない。だがそれでも。 なぜだろう、言葉どおりの安堵がすうっと胸に満ちてくるような――それは微笑だった。 第十三幕へ進む 序幕へ戻る 入口へ |