〜第二十二幕〜 作戦会議







「いやぁ、びっくりしたよねぇ駒形さん。何の予告もなしにいきなりあれを見せるなんて、茜音さんもつくづく人が悪い。彼女は『ごめんなさい』という言葉が生まれつき語彙から欠けているひとなんで、僕が代わりに謝るよ」
 ひょろりと背の高い少年――若槻と呼ばれていた上級生はそう言って、あっはっはと陽気に笑ってみせた。
「――――」
 つばさはそろえたひざの上に手を乗せ、先程からちぢこまってうつむいたままだ。
 頬が赤くなっているのが、自分でも判った。
 先程学校で取り乱して、先輩たちに食ってかかってしまったがゆえの気まずさもある。それに――それに――
 つばさは上目遣いに、茜桟敷の面々を見渡した。
 左側のソファーに、若槻先輩。前髪に隠れた両目ゆえに表情はいまいちよく判らないが、口元に刻んだ笑みはあくまでも飄々(ひょうひょう)としたものだ。
 右側には、それとは対照的に不機嫌の鎧を纏いこんだ仁矢。そして正面には茜音が、若槻先輩の軽口は耳にも入らない様子で、感情を読み取れない静かな微笑をこちらに向けている。睦さんと呼ばれていた少女は挨拶を交わしたあとで、部屋の奥にある戸口の向こうに入っていってしまったきりだ。
 しばしの沈黙。天井に取り付けられた大きな金色のファンの影が、テーブルの上をゆっくりと廻っている。
「どうした? つばさ君」
 茜音がそう言って、興味深げに瞳を細めた。
「《パノラマ》から出てから、黙りこんだままじゃないか」
「ほら、だから今言ったじゃないですか」
 若槻が横から、茜音に向かってはたはたと手を振ってみせる。
「部屋に入ったとたんにあんな奇天烈(きてれつ)なもの見せられたんじゃ、誰だって呆然としちゃいますってば。まったく、ひとの心の繊細さというやつを解さないんですから、茜音さんは」
「……そうだね、いささか反省しているよ」
 彼のほうをちらりとも見はせずに、茜音は涼やかに息をついた。
「人としてごくごく当たり前の感受性を備えているつばさ君に、君のような図太さと神経の欠落を期待したのは確かに僕の迂闊だったな、京一郎」
「……いや、ですからそういう物言いがすでにひとの心をですね――」
「――あのっ」
 つばさが何とかあげたか細い声に、若槻――京一郎が、はたと反論の口を止める。
「あの、そうじゃないの、そうじゃなくって、その」
 耳まで真っ赤になりながら、つばさはしどろもどろに言葉を続けた。
「み、見てたんですよねっ。あたしが、あの、何だっけ、《パノラマ》っていうのの中でびっくりしたりわたわたしちゃってるとことか、ずっと見られちゃってたんですよねっ、センパイたちにも、あの、それに――」
 ちらり、と、視線が一瞬無意識に仁矢のほうを向く。向いてしまう。
 頬が茹で上がりそうだった。幻の浅草の中であわてふためいたり大声をあげたり、たどたどしい口調で茜音の問いに答えたり――それを全部、こんな至近距離で見られていたなんて。
 ひざの上の両手を、つばさはぎゅっと握りしめる。
 なんでだろう。何をここまで、あたしは真っ赤になっているんだろう。そう考えたらなぜだか、ますます頬がかぁっと熱くなった。
 この世の終わりかというくらいに居心地の悪い、数秒間の沈黙。
「く――」
 それを破ったのは、茜音の口から洩れるおし殺した笑いだった。
「く――くくっ――はははははっ」
 前髪をかき上げるように片手で顔を覆い、茜音はさも愉快そうに声をあげる。
「な、な――わ、笑わなくったってっ」
「は――いや失敬。
 何をおし黙っているかと思えば、そんなことで――つばさ君、何度も繰り返すが、君は本当に愉快な娘だよ」
「だ、だってっ――だってっ!」
「それは大丈夫さ、駒形さん」
 切羽詰ったつばさの言葉を遮ったのは、飄々とした京一郎の声だった。
「茜音さんはともかく、僕たちは《パノラマ》の中は覗き込めないからね」
「え――?」
「《パノラマ》は、茜音さんのような力ある奇術師が造りだす――そうだね、一種の異空間みたいなものなんだ。だから、あの中でのことは外の僕らには見えないし聞こえない。あ、茜音さんが聞かせようと思ったのなら別だけどね」
「そ――そうなんだ……。
 あ、で、でもっ。さっきセンパイ言ってたじゃないですかっ。『いきなりあんなものを見せられたら』ってっ」
 それはやはり、『あれ』の中を知っているということで――
「あ、それはね」
「……わたしたちも、同じものを見たことがあるの。今日の駒形さんみたいに、初めてここに来たときにね」
 言いかけた京一郎の言葉を、柔らかに澄んだ声が引き継いだ。
 と同時に――深く、ほのかに甘い香りがつばさの鼻腔に届く。
 これは……紅茶?
「――――」
 思わず巡らせたまなざしの先。戸口をくぐり、香春 睦(かわら むつみ)が部屋の中に入ってくるところだった。胸の前に持ったトレーの上で、品の良いデザインのカップが五つ、淡い湯気を立ちのぼらせている。
「あれはほんと、びっくりしちゃうよね。わたしなんて、《パノラマ》が解けてからもしばらくぽうっとしちゃって、ぜんぜん喋れなかったもの」
 眼鏡の奥で、大きな瞳が照れくさそうなはにかみを帯びた。
「……あれはまあ、一種の通過儀礼というやつでね」
 睦がテーブルの上に並べてゆくカップにちらりと視線を落として、茜音が口を開く。
「口だけで言い聞かせられるより、実際に肌で感じたほうが理解が早いというものだろう。そうではなかったかな? つばさ君」
「う……うんっ……」
 急な問いを向けられ、つばさは思わず頷いてしまう。本当のところ、茜音の言葉は「いきなり予告もなくあんなものを見せる」ことの理由にはなっていないように思えるのだが――反論をしても、この不可思議な少女には決して勝てはしない気がした。
 ――そっか……見られてたわけじゃ、ないんだ。
 ふうっ、とちいさな息をつく。いったん真っ赤に染まった頬は、恥ずかしさのタネが消えたとて急に冷めてはくれない。
「――さて」
 睦が京一郎の横に腰を下ろしたのを見やりながら、茜音がひとつ咳払いをした。
「さほどの時間があるわけじゃない。無駄口はここまでにして、さっそく本題に入ろうか」
 切れ長な彼女の双眸が、静かにつばさを見据えた。
 深く澄みわたる、二つの深淵。その奥に宿る光は依然、どこまでも謎めいて。
 つばさは思わず、ごくりと唾を飲み下した。
 《パノラマ》という不可思議な空間を経て、いつの間にか立ち入っていたこの地下室。
 木目調に統一された壁と床。天井で廻る金色のファン。やや暗めの照明に陰影を刻んで、棚に並んだ古めかしい道具の数々。部屋そのものが醸し出す秘密めかしい空気が、今となって急に胸の中に忍び込んでくる。
 自分はもう、違う世界に入り込んでしまったのだ。あらためて、つばさはそう感じた。
 不安とも、うしろめたさとも、かすかな高揚ともつかない奇妙な感情に、胸の奥で鼓動が跳ね上がる。幼いころ、遊びに夢中になって門限を過ぎ、夕闇の落ちた路地裏をひとりで歩いた時の感覚にそれはよく似ていた。
 わずかの沈黙をおいて、茜音は淀みなき声で言葉を継ぐ。
「つばさ君は、わが茜桟敷への協力を約束してくれた。そう――いわば仮入団という形になるかな。
 僕たちは奇術師《蛇使い》を追い詰め、彼女の友人の命を救うことに力を尽くす。つばさ君はその捜査にできうる限りの力を貸す。異存はないね?」
「――うんっ!」
 つばさは表情を引き締め、せいいっぱいの声で答えた。
 異存なんて、あるはずがない。千絵ちゃんを助けるためだったら、あたしはなんだってする。ぜったいに、なんだって、してみせる。そう誓った。自分自身に、そう誓ったのだ。
「……宜しい」
 茜音は満足げに頷くと、静かなまなざしで茜桟敷のメンバーを見渡した。
「というわけだよ諸君。この事件において、つばさ君とわれわれ茜桟敷は共同戦線を張ることになる。
 自己紹介というのがお定まりなんだが、ここでは省略するよ。幾度か顔をあわせているだろうし、《力》については事件の中でおいおい知ることもあるだろう。足りなければ、あとでめいめい適当にこなしてくれ」
「――いやぁ、助かります。あがり症なせいか、どうもこの自己紹介というやつは苦手でしてねえ」
 京一郎が後ろ頭を掻きながらそう言って――すぐに茜音の冷ややかな視線に気づき、ひとつ咳払いをした。
「と、とにかく、よろしくお願いするよ。駒形 つばささん」
「あ、えーと――はいっ」
 つばさは、いささか呆気にとられながらもぺこりと頭を下げた。若槻 京一郎というこの先輩――とぼけているだけなのか本当にこういう人なのか、まだどうにもうまくつかみきれない。
「よろしくね、駒形さん」
 となりの睦が、ふんわりとした笑みとともに握手の手を差し出した。
「よ、よろしくおねがいしますっ」
 おずおずと、つばさは彼女の手を握る。びっくりするくらい柔らかで、ほのかな温もりを宿した肌の感触が指に伝わってきた。
「……橘さん、ぜったいに助けられるから。がんばろうね」
 包み込むようにつばさの指を握り返しながら、睦が言った。表情も口調も、変わらず穏やかなまま――けれどもその声に、限りなく真摯な響きを込めて。
「――はいっ」
 つばさは、力いっぱいに頷く。
 不思議だ。千絵ちゃんを助けるという、おそらくはいくつもの危険と困難の向こうにあるゴール地点。けれども、いまの先輩の一言を聞いただけで、そのゴールがぐっと自分に近づいたような――そんな気がした。
 睦はいま一度柔らかに微笑んで、元どおりソファーに背を沈める。
「え……と」
 ゆっくりと、つばさはまなざしを巡らせた。反対側の席に腰を下ろした、茜桟敷のメンバー最後のひとりへと。
「よ、よろしくねっ、赤城くんっ」
 投げかけた、自分の声と笑顔。あまりのそのぎこちなさに、つばさ自身が思わずぎょっとなった。何だろう? 何なんだろう? これはっ。
 半ば予期した通り、返事は返ってきはしない。仁矢はただ、煩わしげな一瞥をちらりとこちらに投げかけただけだ。
 うぅ、とつばさは唸った。
 気分を害した、というわけではない。
 何と言えばいいのだろう――もどかしかったのだ。仁矢が自分に対して張った、不機嫌な沈黙の壁。その壁の正体を、わずかたりともつかめはしないことが。
「赤木くんってばっ」
 妙な焦りのようなものが胸の中にくすぶって、ついつい声を荒げてしまう。
「ちょっとっ。そういうのってないじゃんかっ。怒ってるんだったら、何怒ってるんだかはっきり言ってよっ」
 応えは、沈黙。
 つばさは八方ふさがりになった。怒鳴りたくはない。ないのだけれど、こうなるともう行きがかり上怒るしかない。
「――いや、済まないねえ駒形さん」
 その窮地をすんでのところで救ってくれたのは、あいも変わらず飄々たる京一郎のひと声だった。
「仁矢くんはね、非常に恥ずかしがり屋さんなんだ。こういう場になるといつも黙りこくってしまうから、気配から何を言いたいのかうまく察してあげるのが彼と付き合うときのポイントだよ」
 ぴしっとひとさし指を立てて、京一郎は陽気な笑みを口元に湛えた。仁矢がかなり険悪なまなざしを投げたが、彼はそしらぬ風で言葉を続ける。
「駒形さんはまだ初心者だから、今回だけは特別に僕が通訳を務めよう。仁矢くんはこう言いたいんだ。
『知り合いになれたのは嬉しいけれど、まだ駒形さんのことがよくわからないのでどぎまぎしてうまく話ができない。ついては親交を深めるために、ここを出た後にその辺の喫茶店あたりでひとつお茶でも――』」
「……先輩」
 ぼそり、と、仁矢がこの部屋に入ってから初めて口を開いた。
「ん? 何だい仁矢くん」
「それ以上出鱈目喋ったら、先輩でもただじゃおかないぜ」
 錆びた刃物というものを声の形にしたら、きっとこういう感じだろう。そんな、低く鋭い呟き。
 だが京一郎の纏うのほほんのバリアは、いささかたりとも揺るぎはしない。
「いやだなぁ仁矢くん、通訳に多少のミスはつきものだよ。それがお気に召さないなら、自分で直接喋りたまえ。黙ったままでいたいなら、僕が代わりに君の思いの丈を駒形さんに伝えてあげよう。逐一懇切丁寧にね」
「――――」
 仁矢の頬のあたりがぴくっ! と、見るからに危険な感じに震える。
 つばさははらはらして睦のほうに視線を投げたが、彼女は眼鏡の奥の瞳にほのかな微笑を浮かべてふたりのやりとりを見守っているだけだ。
 張り詰めた、数秒の沈黙が場を覆う。その沈黙を破ったのは、苛立たしげな仁矢の溜息だった。
 京一郎からまなざしを逸らし、彼はそのままちらりとつばさを見やる。つばさは思わず、むむっと眉をしかめて仁矢の顔を見返した。
 今ひとたびの、一瞬の間ののちに――
「……邪魔だけは、するんじゃねえぞ」
 言い捨てる――そんな表現がまさにぴったりの低い呟きが、仁矢の口から洩れる。
 あいも変わらず不機嫌で、愛想というものの欠片もない一言。
 けれどもそその声は、不思議と冷たい印象を与えなかった。
 それは――見えたからだ。聞こえたからだ。ほんの一瞬だけだけれど。
 仁矢の表情と声をよぎる、ふてくされたような照れたような、微妙な感情の揺らぎが。
「……しないってば。やだなあ」
 はたはたと手を振りながら――つばさはなんとなく可笑しくなって、へらっと笑ってしまう。
 仁矢は苛立たしげに舌打ちをすると、腕を組んでソファーに深々と背を預けた。もはや、つばさの方に視線を向けようともしない。
 その向かいで京一郎が、満足げな笑みを浮かべたまま何やらうんうん、と頷いている。隣の睦ははじめからこうなることが解っていたかのように、穏やかな微笑を浮かべたままだ。
「……良いかな、そんなところで」
 こほんとひとつ咳払いをして、茜音がおもむろに口を開いた。
「やれやれだよ。どうして自己紹介を略したのか、君たちはまったく理解していないようだね」
 一同の顔を見渡すと、彼女はいささか大きめに溜息をついてみせる。
「念のために言っておくが、今回の一件、僕らにはそれほど多くの時間と機会が残されているわけではないよ。
 《蛇使い》は、結社の一員に過ぎないからね。次の対決の際にまんまと逃げられるようなことがあれば、彼に代わって別の奇術師がこの浅草に差し向けられる可能性もある。普段ならいざ知らず、今回はそれでは困るのではないかな?」
 すうっ……と細められた瞳が、再度つばさをとらえる。
「う――うんっ!」
 もちろんだ。
 いくら茜桟敷があのおじいさんに勝てたとしても。あのおじいさんを追い払えたとしても。千絵ちゃんを助ける方法を聞きだすことができなければ、全く意味はない。
 と、いうことは――
「まぁ、《蛇使い》さんを捕まえるかそれとも拠点をつき止めるか。そのどちらかが、今回の事件解決の最低条件ということになるかな」
 つばさの思考を引き継ぐように、京一郎が口を開いた。
「――できれば、両方だよね」
 と、これは睦。
「拠点にしている場所があるんだったら……毒蛇をつかっているんだもん、万が一の時のために血清とか解毒薬とか、それくらいは用意してあるんじゃないかな」
「そうだね。そいつをひと瓶手に入れることができれば――茜音さん、成分を分析して必要なぶんを精製するくらいのことはできますよねえ?」
「……馬鹿にしないでくれたまえ」
 いささか矜持を傷つけられたように、茜音はこほんと咳払いをした。
「それくらいは、大した手間も時間もかかるまい。
 問題は、その拠点とやらをいかにして突き止めるかのほうだろう? 先程君たちは愚かにも、追跡の手がかりひとつ入手することもなく《蛇使い》に逃走を許してしまったのだからね」
「いや――面目ない」
 申し分けなさそうに、かくんと頭を垂れる京一郎。
 茜音はやれやれとばかりに肩を竦め、それからおもむろに低い声で口を開いた。
「……現時点で、僕らの側から敵の本拠を割り出す材料は皆無に等しい。
 となれば、とりうる手段はひとつだ。次の襲撃の際にその帰路を追跡し、拠点を突き止めて解毒の方法を入手。然るのちに《蛇使い》を捕縛する。
 今度こそ、失敗は許されないと思いたまえ」
 静かながら、有無を言わさぬ厳粛さをもって響く茜音の言葉。言わんとすることは半ばのみ込めないながら、つばさはごくりと唾を飲んで頷く。
 だが――
「……帰路?」
 思わず方向からその時、訝しげな呟きがあがった。
 仁矢だ。
 あいも変わらず不機嫌そうに腕を組んで、彼はじろりと茜音の顔を睨みやる。
「ってことは、もう一回わざと逃がすってことか? あのじじいを」
「そういうことになるね。何か不満かい仁矢?」
 訊ねる茜音に、仁矢は険しい表情のまま肩を竦めた。
「んな手数踏む必要があるのかよ。その場でふん縛って、寝床の場所を吐かせりゃ済むだろうが」
「……やれやれ、いつもながら短絡だな君は」
 ふっ……と鼻で笑うと、茜音は大仰にかぶりを振ってみせた。仁矢がかすかに気色ばむが、むろん彼女はそんなことは構いもしない。
「拠点を特定する前に、《蛇使い》を追い詰めてみたまえ。奴が解毒剤なり血清――自分の蛇たちをそれ以後無力にするような品を、素直に渡すと思うかい?
 答えは否だ。奴は間違いなく、『人質』の命を取引のカードとして使ってくるよ。自分を解放しなければ、眠っている人間はそのまま死ぬことになる、とね。
 精神的な甘さを捨てきれない君たちが、その場で適切な交渉ができるとは思えないな」
「――まあ確かに、今回は先に相手の本拠をつき止めてから対決というのがベスト……なんでしょうね」
 京一郎がそう言って、何事かを考え込むように天井を仰いだ。
「……ということは――」
 その隣で、睦がぽつりと口を開く。何だろう、どことなく不安げに表情を曇らせて。 
「次にあのおじいさんが襲ってきたときにはひとまず手を出さない、ということですか?」
「ああ、そう考えているよ」
 静かな声で、茜音は睦の問いに答えた。
「『人質』を向こうに握られているに等しい今の状態で対峙したりすれば、君たちは思わぬ失敗を重ねかねない。
 事を構えるのはあくまでも、相手の本拠を突き止めてからだ」
「――――」
 その言葉に、睦の瞳に宿る翳りはよりいっそう色濃いものになる。
 彼女は微かに眉を顰めると、まなざしを巡らせた。その視線の先は――
「……?」
 つばさは思わず、きょとんとどんぐりまなこをしばたかせた。
 ほかでもない。睦が不安げなまなざしを向けた先は、つばさだったからだ。
「……となると――そういう、ことですか」
 溜息混じりの声で呟いて、京一郎もまたこちらのほうへ顔を向ける。
 ――え?……な、なにっ?
「ああ、そういうことだ。
 だから言ったのさ。今度こそ失敗は許されない、とね」
 いささか重々しい口調で呟いて、茜音は頷く。
 静かな光を湛えた切れ長の瞳。その瞳がとらえる相手は、やはり。
「ちょ、ちょっと待ってっ」
 とうとう耐えきれなくなって、つばさは慌てた声をあげた。
「そういうことって、どういうことなのっ? ごめんなさいっ、あたし、ぜんぜんわかんなくって――」
 何だろう。自分に関わりあることが話されているらしいのに、肝心の中身が全く見えてこない。目隠しをされて行先不明の車にでも乗せられているかのようで、ひどく落ち着かなかった。
 つばさの問いに、睦と京一郎が顔を見合わせる。いささか戸惑いがちな、どう切り出したら良いかを図りかねているといった様子で。
 と――
「僕が説明しよう」
 茜音が二人を手で制して、正面からつばさを見据える。
「……君の友人を救うために、《蛇使い》の拠点を突き止めねばならない。そこまでは理解できるね?」
「う、うんっ」
「今回のような場合、相手の拠点とする場所を特定するにはふたつばかりの方法がある。
 ひとつは単純に、相手を尾行することだ。これはまあ、実行するにあたって道具も準備も要さないという利点はあるが――そのぶん、気取られればそこで終わりという危険性も大きい。万全を期すには、もうすこし手の込んだやり方が必要だね。
 ――そこで、だ」
 シャツの胸ポケットに手を差し入れると、茜音は何やらごく小さな円板を取り出した。
 大きさも形も、ちょうど10円玉くらい。洋燈の明かりを受け、それは茜音の指の間で黄金色の鈍い輝きを帯びる。
「な、なにこれ? ……外国のお金?」
「見かけ上は、だ。だが、ただの硬貨じゃない」
 くるり、と指の上で器用に回したコインを、彼女はテーブルの上に置いた。 
「これはね……小型発信機、というやつだよ」
「は、発信機?」
 マンガや映画の中でしか聞いたことのない単語を耳にして、目を丸くするつばさ。
 あらためて目の前のコインに視線を落とすが、やはりどう見てもやや古びた外国製のニッケル貨としか思えない。
「そう。この発信機がある場所を、茜桟敷のメンバーはいつでも把握することができる。
 ……京一郎、つばさ君に見せてやってくれたまえ」
「あ、はいはい」
 茜音の言葉に、京一郎は懐から何かを取り出した。
 やはり、くすんだ金色をした平たい円盤状のものだ。ただこちらは、手の中にちょうど収まるくらいの大きさで、いささか厚みもある。
 円盤の一方についた小さな突起を京一郎が押すと、コンパクトのように円盤が開いた。その中に見うけられるものは――
「……時計?」
 そう、それは古めかしいアナログの時計文字盤だった。
 商店街の時計屋さんのショーウィンドウで、つばさも似たような品を何度か見たことがある。やや大きめの懐中時計、というやつなのだろう。
 いささか時代がかった、雰囲気のあるデザインの時計。だが、これが何だと――
「うん、普段はただの時計なんだけどね」
 つばさの戸惑いを察したように、京一郎は軽く微笑んた。
 時計の突起部分を指でつまんで、くるくると左右に回す。しげしげと見つめるつばさの前で、彼は最後にぱちんと時計のふたを閉じ、そしていまいちど開いた。
 すると――
「わあっ……」
 つばさは思わず、驚愕の声を洩らしていた。
 そこにあったのは、先程までの文字盤ではない。
 ガラスのカバーの中には黒地に白の表示で、図面のようなものがびっしりと映し出されていたのだ。
 たっぷり数秒間眺めてから、つばさはそれが『地図』であることに気付く。
 しかも、この浅草近辺の街路図だ。よく見れば、『新劇場』『浅草公会堂』『花やしき』等の文字が細かに並んでいるのも判った。
 そんな地図の中央に、明滅を繰り返す紅い点がひとつ。
 位置でいえば、浅草東映の映画館の真横あたりだ。
「あれ? ここ――」
「ああそうだ。その点が、この発信機の位置だよ」
 思わず指差したつばさに、茜音が頷いてみせた。
 見れば確かに、紅い点が明滅しているのはまさにこの『茜桟敷』の所在地にほかならなかった。先程つばさは映画館の横にある隠された入口から、この地下室に降りてきたのだから。
「この機械は、僕の特製でね。この茜桟敷のビルのように、奇術の力を使って隠された空間でも通信が途切れたりすることはない。
 つまり――このコイン型発信機を《蛇使い》の拠点に持ち込めれば、僕らはその位置をはっきりと把握することができるわけさ。
 あとは話が早い。一気に襲撃をかけ、奴の身をおさえると同時に血清を手に入れれば、今回の事件はそれで決着だ」
「う――うん――」
 つばさは頷いた。
 こんなにはっきり場所がわかってしまうのだったら、確かにあの怪老人といえども逃げ隠れることはできないだろう。
 あのおじいさんにこの発信機を持たせることができれば、その時点で事件解決の糸口は見えてくるのかもしれない。
 しかし――
「で、でもっ――どうやって?」
 茜音の顔を見やって、つばさは訊ねた。
 あのおじいさんがそうそう簡単にこんな発信機を付けさせてくれるとも思えないし、騙して持ち帰らせるというのもなんだか難しいような気がする。
「そうだね。問題はそこだ」
 茜音はそう言って、黄金色のコインを指でつまみあげた。
「奴の使役する蛇の一匹に呑み込ませてやるというやり方も考えたんだが……どうやらあの蛇は一匹一匹が奴の目であり耳であるらしいからね。仕掛ける段階で露見しないとも限らない。
 となれば、もう少しばかり確実性のある方法を採らねばならないが――」
「えーとっ……おじいさんの荷物の中に、紛れ込ませちゃうとか?」
 考え付くまま口にして、つばさは一瞬で後悔した。
 相手がそんな隙を見せてくれるのだったら、そもそも苦労はするまい。大体にして、見たところあのおじいさんは荷物など持っている様子はなかった。
「荷物――荷物か。いい線だ、なかなかに近いよつばさ君」
 だが茜音は意外にも、つばさの答えが満更ではないようだ。可笑しそうに口元を歪めると、まなざしを細めてつばさを見やった。
「……ひとつ君にヒントを与えよう。
 《蛇使い》が再度僕らの前に現れるであろうことは間違いないが――さて、奴は何のためにやって来るのだと思う?」
「――へ?」
 唐突に向けられた問いに、つばさは一瞬言葉を失う。
 《蛇使い》のおじいさんが何のためにもう一度やって来るかって――それは――
「え――ええとっ、その――
 なんでだかよくわかんないけど、あたしを捕まえるため……だよね」
 そう。そうなのだ。
 理由はまったく定かではないが、あの黒衣の怪老人はつばさの身を狙っている。
 最初に彼を目にしたのは『駒形座』の公演のお客さんとしてだったが――思えばあれは、獲物であるあたしを下見に来たということだったのだろう。
 つばさにしてみれば、自分のどこにわざわざ誘拐されるような価値があるのかはてんでわからない。わからないけれど。
 先程、学校の教材室で《蛇使い》のおじいさんはあたしに言った。
 あたしを迎えに来たと。あたしの『力』が必要なのだ、と。
 彼は今一度、あたしの前に現れるだろう。
 千絵ちゃんの身を『人質』にとった今、今度こそ確実にあたしを連れ去るために。
 あたしを――
「――あ――」
 そこまで考えたところで――つばさは思わず声を洩らした。
 繋がった、のだ。
 先程から、茜音が言わんとしていることが。
 《蛇使い》のもとに発信機を送り込む、もっとも確実な方法が。
 睦たちが自分に向けた、不安げなまなざしの意味が。
 そう。そういうことなのだ。
 《蛇使い》のおじいさんはあたしを誘拐するためにやってくる。その彼を、手を出さないまま逃がして拠点を突き止めるというのは、つまり――
「……わかったようだね、つばさ君」
 トーンを落とした声で呟くと、茜音は静かにつばさの片手をとった。つばさのてのひらの上に発信機を置くと、両手で包み込むようにそっと握らせる。
 指に伝わる、ひんやりと冷たいコインの感触。とくん、とくんっ……と、つばさの胸の奥で鼓動が張り詰めたリズムを刻む。
 長く短い、数秒の沈黙が室内を支配した。
 深く澄んだその双眸で、正面からつばさを見据えたまま――厳かとさえいえる声で、茜音はおもむろに口を開く。
「敵の狙いがつばさ君にある以上、これはつばさ君にしか果たし得ない役割だ。
 ……君にはこの発信機を携えたうえで、《蛇使い》の虜(とりこ)となってもらう」

第二十三幕『長い夜の幕開け』に続く




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