〜 第四十五幕 終わりと始まりと 〜


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(前編 03/1/2更新)
 青一色に染め上げられた、花やしきの広場。
 はりつめた沈黙のうちに、茜桟敷は仮面の怪人と対峙する。
 ――げんとうし……
 ごくりと唾を呑んで、つばさは新たなる奇術師の名を胸中に呟いた。
 純白の仮面が形作るは、喜悦の笑み。無表情よりもなお冷たく、憎悪の表情よりもなお凶々しい――
 その笑みが、不意につばさのほうを向いた。
 三日月形の眼孔の向こうに、瞳は見えない。そこにはただ、漆黒の闇が広がっているばかりだ。
 深い淵を覗き込んだかのような感覚が、全身を竦ませる。膨れあがる怯えに抗しながら、つばさは懸命に《幻燈師》を睨みあげた。
 フ……フフ……という低く重い笑いが、仮面の口から洩れいでる。
「な――何さっ! 何がおかしいのさっ!」
 つばさは思わず声をはりあげた。挑発だということはわかってはいても――応ぜずに黙ったままでいると、緊張に押し潰されてしまいそうだ。
『いや、失礼。いまの笑いは、いわゆる自嘲です。
 お嬢さんたちの奇術の《力》は、まことに賞賛に値するものだ。そこな老人のごとき半端者を遣わしたは――われらが一座、あまりにも礼を失していたと思いましてな』
「――っ」
 朗々と紡がれる怪人の言葉に、つばさは奥歯を噛み締めた。
 鋭い怒り。おそらくは先程睦が垣間見せたものと同じ感情が、胸の奥に爆ぜる。
 《蛇使い》は、戦いの相手だった。あのおじいさんが千絵ちゃんとあたしたちにしたことは、ぜったいに許せない。
 それなのに。いま自分の中に膨れあがる不快感は、なんなのだろう。
 つばさにはわからなかった。
 わからないけれど、ただ――
『あらためて、お誘いを申し上げたいところですよ。《軽業》のお嬢さんも、ほかの方々も――われらが計画にお力を貸してみるおつもりはございませんかな』
「あるもんかっ! 絶対に嫌なんだからっ!」
 一刹那の間すらおかずに、つばさは叫んだ。
 そう。ただ、これだけは言える。
 眼前の中空に立つこの仮面の怪人と相容れることは、何があろうとも決してできはしないと。
『これはこれは、初対面からひどく嫌われたものだ』
 言って《幻燈師》は、微かに首を傾げてみせた。
『どうも解せませんな。茜音様のことは無邪気に信頼する貴方がたが、私どもに面するとこうも敵意を剥き出しにするというのは。真意を覗かせぬことにかけては、茜音様も私に引けはとられぬと存じますが』
 多分に芝居めいた、それこそ真意の見えぬ口調で彼は言葉を紡ぐ。
 揶揄の矛先を向けられた茜音は、黙したままだ。こちらには背を向けており、表情をうかがうことはかなわない。
 沈黙が生じた。仮面の男の言葉を否定しながら、つばさは言葉を探しあぐねる。
 明らかに相手の側が支配する、重苦しいその静寂を、
「……解せないとおっしゃるのは、洞察力というやつが欠けていらっしゃるからだと思いますけれどね」
 飄々とした声で破ったのは、京一郎だった。
 ほう、という呟きとともに、仮面がわずかに頭を巡らせる。怪人の瞳なき視線を受けて、彼はたじろぐこともなく言葉を続けた。
「簡単なことですよ。一座の人間を半端者扱いして切り捨てるようなかたを、たやすく信用するお人よしもいないでしょう。人心というやつを、もうすこし勉強されるべきじゃないですか?」
 先程までよりも、静かな声。だが、淡々とした口調の裏に潜む刃を、つばさは確かに感じ取っていた。
 もしかしたらこれが、京一郎という先輩の怒りのかたちなのかもしれない。
『これは痛み入る――成程、貴方が《催眠術》の若槻様ですか』
 されど、青衣の怪人もまた動じた様子は見せない。上機嫌とさえいえる口調は、仮面の口がいっそうに吊りあがったかのような錯覚を生ぜしめる。
『かねがね話にはうかがっておりましてな。ぜひとも一度、会話を楽しんでみたいと願っていたところですよ』
「光栄ですが御免被ります。
 さすがに帰って寝ないと明日がきつい時間だ。お喋りだけがご用件でしたら、出直していただけませんかね」
『いやいや』
 さも可笑しそうに、《幻燈師》は口元に袖をあててみせる。
『失礼、ついつい浮かれて羽目を外してしまいました。惜しいが遊戯はまたの機会として、本題に立ち返らせていただきましょうか。
 そう、まずは――』
 仮面の口にあてた手を、怪人はゆっくりと頭上に掲げた。
 緊迫して身構えるつばさの耳に、ぱちんっ……と指を鳴らす音が響き、瞬間――

 パァンッ!!

 乾いた破裂音とともに、青い闇の中を無数の白い蝶が舞った。
 いや、違う。楪ではない。
 ひらひらと翻りながら夜風に散るは、幾千幾万ものちいさな紙片。
 紙吹雪だ。何処からともなく出現した純白の紙吹雪が、自分たちを取り巻くように舞い狂っている――
「何さこれっ!?――あ、ああっ!!」
 つばさが発しかけた問いは、そのまま驚愕の叫びに転じた。
 気付いたのだ。広場に生じた、唐突なこの異変の源に。
 すぐ背後に横たわっていたはずの、《蛇使い》。黒衣の老人の身体が、十メートルはあったであろう大蛇の巨身が――忽然と、アスファルトの上から消え失せているではないか!
 微かな火薬の匂いが鼻をついた。大蛇の身体があった場所には、炸裂の名残とおぼしき紫煙がうっすらとたゆたっている。
 ああ、しかし。それだけを。それだけを唯一の痕跡として。《蛇使い》は影も形も残さずに、つばさたちの眼前から消滅していた。
『《物体消失》――名の通りの、月並みな奇術です』
 弦楽器の響きにも似た、朗々たる声が耳に届く。
 《幻燈師》。足場すらない虚空に佇み、仮面の笑みでつばさ達を見下ろしながら。
『廃物の処理は、こちらの役目というものでしょう。
 世に騒乱をもたらすが我らの望みといえど――今の段階であのような化物の屍が人目に触れれば、今後の動きが取りにくくなりますからな』
「い――」
 まなざしに怒りをこめて、つばさは《幻燈師》を睨み据える。
「いいかげんにしなよ、さっきからっ!」
 投げつけた怒声に、仮面の男は不可解そうに首を傾げてみせた。おどけるようなその仕草が、つばさの胸にさらなる怒りの炎を呼び覚ます。
「若槻センパイの言うとおりだよっ。自分とこの身内をあんな目にあわせといて、何へらへら笑ってんのさ!」
 間違いなく。
 目の前のこの仮面の男は、誰の命が失われても――たとえ手を下したのが自分であろうとも、何も感じはしないのだろう。
 自分の手の内にある硝子の小瓶を、解毒剤の瓶を、つばさは握り締める。この解毒剤がどれほど大切なものかなんて、きっと解らないだろう。
 《東京大魔術計画》だか何だか知らないけれど、こんな人たちが造ろうとしている奇術師の楽園なんて、ろくなものであるはずがなかった。
「どう言われたって仲間になんてなんないんだから。さっさと帰ってよっ。二度と来るなぁっ!!」
 顔を真っ赤にして叫ぶと、つばさは荒く息をつく。
 しばしの沈黙があった。緩やかな夜風が、足元の紙吹雪を空へと攫う。
『――やれやれ』
 大仰な溜息をつくと、《幻燈師》は肩を竦めた。
『今になって私も、《蛇使い》が哀れになってきたところですよ。貴女のような意固地なお嬢さんが相手では、さぞかし荷が重かったことでありましょうに。
 もっとも――ふふっ――ふふふふふっ』
 調律の狂った笑いの声が、仮面の口から洩れ出でた。
 白い手袋を嵌めた右手で、《幻燈師》は己の青衣の左肩を掴む。
『かようなことを申し上げては咎めを受けるやもしれませぬが……実のところ、かの老人の使命が失敗に終わったことを喜ぶ己もおりましてな。
 《軽業》のお嬢さん。貴女とは同志として手を結ぶより、宵闇の織り成す舞台の上で技を競い合いたいものだ』
 ばさ……っ!
 蒼褪めた闇の中、青い布地が旗のごとくに翻る。
 《幻燈師》が、被っていた長衣をひといきに脱ぎ捨てたのだ。
「――――!」
 夜空を背負い、宙に佇む影。顕わとなった《幻燈師》の姿に、つばさは思わず息を呑む。
 何故なら――彼が身に纏う衣装は、つばさにも馴染みのある服飾だったからだ。
 二股に分かれたとんがり帽子。大きく膨らんだつくりの胸と手脚。襟と袖と裾には、ぎざぎざを強調したようなデザインの折り返しが見て取れる。
 道化服。そう、それはまさにつばさが駒形座の舞台で身につけているものと違わぬ、道化師の衣装にほかならなかった。
 異なるのは、色だけだ。
 臙脂と黒を基調としたつばさの舞台衣装と異なり、《幻燈師》の衣装は青と黒とのチェックに染め上げられている。青の明かりに照らされた中で彼の姿はまさしく、背景に溶けこむ幻燈の像のようだった。
『ふたつめの用件を、果たさせていただきましょう』
 《幻燈師》は、唄うがごとくに言葉を紡ぐ。
『私は、告げにまいったのですよ。
 結社の道化師として、《茜桟敷》との戦いの幕開けを。
 そして――新たなる《東京大魔術計画》の始まりをね』
(中編 03/1/12更新)
「――――」
 再び、沈黙がその場を支配した。
 睦は、張りつめた表情で微かに眉を寄せて。京一郎は無表情に口元を結んで。仁矢は射るような光を双眸に湛えて。皆一様に、頭上に浮かぶ青の道化師を見据えたままだ。
 茜音もまた、先ほどからの不可解な無言を保っている。
『刻は来れり、というものでありましょう。茜音様はこうして手駒を揃えられ――我らが一座の奇術師達も、この東京に集いつつある。
 これ以上、くだらぬ前座芝居を続ける必要もございますまい?』
 フフ――フフフフフ――という愉快げな笑いの声が、夜の静寂を低く震わせる。
『遊戯のルールは、至極単純です。
 これより先――我ら一座の者たちは一人ずつ、この東京の何処かを舞台に自らの奇術を仕掛ける。
 術がもたらす怪異は、市井の民の間に惑乱の澱を積もらせてゆきましょう。それが臨界を超えるとき、この都市の秩序はおのずから崩壊をはじめることになります。
 これまで永きにわたって拠り所としていた常識も平穏も、もはや自明のものとして働きはしない。当たり前のものとして続いていく明日という日を、誰一人として信じることはできなくなる。かくして――』
 語りかける《幻燈師》の声は、次第に舞台上の独白にも似た熱意を帯びていく。
 つばさは見た。三日月型にくり抜かれた仮面の眼窩(がんか)。その奥で闇に隠れた怪人の瞳が、ここではない場所――どこか遠い災厄の刻へ向けられるのを。
『渦巻く混沌を糧として、我らが《大魔術》は結実します。全き破壊ののちに、この都市は再び紡ぎ直されることになる。
 新たなるその始点へと、刻を導くことが叶えば我々の勝ち。
 この都市の今を護りきり、我ら一座の奇術師の全てを退けることができれば貴方がたの勝ちです。
 いかがですかな、茜桟敷の諸君』
「いやぁ……いかがですかなとおっしゃいましても」
 《幻燈師》の声が造り上げた空気をふわりと一変させる軽い声で、即答したのはもちろん京一郎だ。
「お話が途方もなく大きいうえに抽象的なので、何だかよくわからないってのが正直なところですねえ。せめてその、肝心の《大魔術計画》ってものの中身だけでも噛み砕いてお話いただければ、お答えのしようがあるのですけれど。
 というより――『いかがですかな?』なんておっしゃって、僕らが嫌ですと答えたら止めてくださるおつもりなんですか?」
『困りますな、物事はもう少し素直に見ていただかなくては』
 仮面の額に手をあてて俯き、道化師は芝居がかった困惑のポーズを作ってみせる。
『我らの使命は、あくまでも《東京大魔術計画》の遂行にあります。貴方達との争いは、いわばその途上における余技に過ぎないのですよ。
 本来は観客の席に置き去りにすればいい貴方達を、同じ舞台の上へのご招待さしあげるのです。そう邪険にされることもございますまい?
 《大魔術》の内容、生憎こればかりは手品のタネというものでしてな。ふふふ――急かれずとも、貴方がたはその目をもってご覧になることとなりましょう。いずれ、そう遠くはない日に』
 悦に入った《幻燈師》の口上に、京一郎が再び口を開こうとした、まさにその時――
「やめとこうぜ、先輩」
 低い一声が、彼の言葉を遮った。
「何訊いたって、くだらねぇ無駄口しか返ってきやしねえさ。こいつからは」
 投げやりな台詞の中に、刃のごとき怒りの気配を潜ませて。声を発するのはむろん、赤城 仁矢だった。
 傷が身体に堪えているのだろう、手近な遊具の鉄柵に背を預け――それでも眼光の鋭さは変わらぬままに、彼は中空の《幻燈師》を睨みあげる。
「確かに単純なルールじゃねえか。要はてめえらを一人ずつ、残らずぶっ倒していけばいいってだけのことだろ?」
 仁矢の言葉に、《幻燈師》は大仰に頷いてみせた。
『口はお悪いが、飲みこみはお早いようですな』
 仮面の口から、可笑しそうな笑いの声が洩れる。
『もっとも――単純と簡単とが異なるものだということは、今後身をもって学んでいただかねばならないと存じますが』
「あいにく頭が悪いんでな。学ぶ前にことを片付けさせてもらうぜ」
 歯を噛み締めたまま、仁矢は唇の片端を歪めてみせる。凶暴な。そうとしか形容のしようがない、笑いの表情。
 ぱきん……っ!
 澄んだ金属音が、広場に響きわたった。
 身を硬くしたまま《幻燈師》との舌戦を聞いていたつばさは、思わずびくりと肩を震わせる。
 なんだろう、今の音は。どこから――?
 その答えはすぐに、つばさの眼前に示された。
「宣言がされたってことは……くだらねえその遊戯ってやつは、いまこの場で始めて構わねぇんだろうな」
 剣呑な声とともに、仁矢はゆっくりと右の腕を前に掲げる。
 その指に、握られているものは――
「……え!?」
 つばさは、目を丸くして仁矢の手元を見た。
 長さ一メートル足らずの、まっすぐな金属の棒。
 ――あ、あれって――
 どこから出してきたものかは、一目瞭然だった。仁矢が背にする遊具の柵、格子のシャフト一本が引き千切られて歯抜けになっているではないか。
「てめえから――くたばりやがれっ!!」
 吠えるがごとき叫びの声に、ヴン! という風の唸りが重なった。
 投げ放たれた鉄の棒が、照明に照り輝きながら空中の道化師を襲う!
「仁矢くん!」
 悲痛な声が夜闇を裂いたのは、まさにその刹那だった。
 睦だ。
 眼鏡の奥の瞳に、はりつめた光を湛えて。
「気をつけてっ! あのひと――」
 つばさが聞き取れたのは、そこまでだ。
「ええっ!?」
 ほかならぬ自分自身の驚愕の声が、睦の言葉の末を遮る。
 棒が。
 仁矢が投げつけた鉄のシャフトが、青の道化師の胸に突き刺さったのだ! 音すらもなく、まるで吸い込まれるかのように。
 ――否。
 違う。突き刺さったのでは、ない。
 《幻燈師》は、悲鳴も苦痛の声もあげはしない。身じろぎすらもすることなく、宙に佇んだままだ。
 無防備に広げた両腕。その間にある道化服の胸元に、傷や孔は見受けられない。突き刺さったはずの金属棒すらも、まさしく奇術のごとくに消えうせていた。
「――――!?」
 攻撃を放った仁矢自身も、息を呑んでその場に立ち竦む。
 からんっ……
 驚愕に彩られた刹那の静寂を、甲高い金属音が打ち破った。
 鉄の棒が、アスファルトにぶつかって跳ねた音。
 そう。
 一瞬前に確かに《幻燈師》を貫いたかと見えた鉄柵のシャフトは、彼の背後、はるか遠い地面に転がっていた。
 ――……すり抜けた!?
 己の瞳が捉えた信じがたき事実に、つばさは慄然と肩を震わせる。
 ほかに考えようもなかった。仁矢の投げつけた鉄棒は、怪人の胸板を素通りして向こう側の地面に落下したのだ。
 ――で、でも、こんなっ……
 呆然と立ち尽くすつばさの耳にその時、苦しげな吐息の気配が伝わってきた。
「か――香春センパイっ」
「大丈夫」
 答えた睦の表情には、言葉とは裏腹に疲労の色が濃い。それが《千里眼》発動直後の消耗であることは、つばさはまだ知らなかったが――ただならぬ様子であることはあまりにも明らかだ。
「あのひと――たぶん、あそこには、いない」
 額に汗を滲ませながら、声を絞り出すように睦は言った。
「幻影ってことだね。名前の通り――」
 歩み寄った京一郎が、ふらつく彼女の身体を支える。
『お見事です。さすがは千里を見通すの神通の瞳。
 ふふふ。私が貴方がたと相対するときには、事前に封じさせていただく必要があるようですな』
「――――」
 京一郎に肩を抱かれたまま、睦は《幻燈師》を見据えた。ほとんど悔し泣きに近い表情。その中で、澄んだふたつの瞳が、何かを見い出さんと懸命に道化師の仮面を見据えている。
「ひきょうものっ! 偉そうなこと言うんなら、ちゃんと目の前に出てきなよっ!」
 悠然と空に佇む《幻燈師》に、つばさは怒りの声を投げた。
「ひとのことさんざん馬鹿にしといて――幻影だか幻燈だか知らないけど、自分なんてどっかに隠れっぱなしの弱虫なんじゃんか!」
 わかってる。こんなのは、挑発にすらなりはしない。ただのがむしゃらな癇癪だ。
 だがそれでも、腹立たしくて仕方がなかった。
 生き死にも、想いも、必死さも――何もかもを皮肉げな嘲笑の中に呑みこんでしまう、目の前の道化師が。
『ええ、おっしゃる通りです』
 つばさの憤りを、《幻燈師》はむろん正面から受けてはくれなかった。道化そのものの芝居がかった仕草で、彼は大仰に肩を竦めてみせる。
『私は、結社きっての臆病者でしてな。敵陣にひとり生身を晒す勇気など、とても持ち合わせてはおりませんよ。
 もっとも――』
 そこまで語って、道化師はふっ……と口を噤む。
 仮面の目が。三日月形にくりぬかれた両眼が、つばさをとらえた。
 瞬間。
「――――!」
 つばさの全身の皮膚が、ぞわりと粟立つ。
 たった今、見たはずなのだ。知ったはずなのだ。眼前の宙に浮かぶこの道化師が、奇術の織り成す幻の像に過ぎないことを。
 それなのに。
 なんだろう、この威圧感は。向かい合っているだけで足が竦むような、凶々しい気配は。
『天はまことに慈悲深きもの――そんな私めのために、似つかわしい「力」を授けてくださいました。敵の前に身を晒さずとも、闇に伏したまま相手を屠る秘術を。
 ……そうですな。貴方がたの奇術を鑑賞させていただいたうえ、対価も払わずに立ち去るは少々心が痛むというものだ。
 ささやかながら、お目にかけましょう。わが奇術――』
 《幻燈師》は、己の顔の前で静かに片手の指を立てた。
 そのままゆっくりと手を掲げ、天を指差す。
『――《現幻燈》(うつつげんとう)
 厳かとすらいえる声で、青の道化師は告げた。
 その言葉に、応えるかのごとく――
 真上を指した、怪人の左手の指。その指先の空間に、人の頭ほどもあろうかという蒼白い炎の玉が出現する!
「あ――」
 呆然たる声をあげながら、つばさは闇に揺らめく火球を見据えた。
 幻影なのだろうか。あれも、《幻燈師》の奇術が作り出した幻なのだろうか。
 ――違う――
 つばさの脳裏に、数分前に目にした悪夢がフラッシュバックする。
 前触れもなく宙に出現し、《蛇使い》の身体を貫いた大剣。
 あれもまた、《幻燈師》が呼び出した像だったのかもしれない。つばさと睦が駆けつけたときには、既に影も形もなかったのだから。
 だが――黒衣の老人は紛いもなく、その剣によって命を奪われたのだ。
『……《軽業》のお嬢さん』
 響き渡る声が、つばさの思考を断ち切った。 
 邪なる光を湛えた仮面の双眸が、自分を見下ろしている。
『先程も申し上げましたが――双方一座の道化同士、次にお会いするときにはぜひとも技量を競いたいものです。そのために……貴女には、真剣になってもらわねば面白くない。
 純粋なる闘争心を呼び覚ますに、最良の燃料は憎悪です。
 憎悪の源は悲しみ。悲しみの源は喪失。
 ふふふ……うってつけの材料が、いま目の前にございますな』
 ――え!?――
 喩えようもなく不吉な予感が、背筋を這い登る。
 《幻燈師》が、ゆっくりと面を巡らせた。真上に掲げていた指の先を、彼は己の視線の先に向ける。あたかも、狙いを定めるかのように。
 その照準に立っているのは、ほかでもなく。
「――仁矢くんっ――逃げてっ!!」
 つばさが声を限りに発した、その叫びの声に――ぱちんっ、と道化師が指を鳴らす音が重なった。
 同時に。
 揺らめく炎の玉が、大砲に撃ち出されたがごとく宙を翔ぶ。青い闇を貫き、地上の仁矢めがけて!
 つばさも、京一郎も、睦も。地を蹴りながら、されど瞬時に仁矢のもとへは行き着けない。
 彼らの眼前で、膨れ上がる火球が仁矢の上半身を呑みこむ――
「仁矢くんっ!!」
 呑みこむ、かに見えた。
 が、しかし。
「舐めてんじゃねえっ!」
 響きわたる、裂帛の怒声。
 横薙ぎに振るわれた仁矢の腕が、迫り来る炎の玉を真っ二つに両断する!
 分かたれた炎はそのまま宙に爆散し、蒼白い欠片となって夜風に掻き消えた。
 されど、ああ――《幻燈師》が繰り出した攻撃はやはり、実体なき幻などではなかった。炎を凪いだ仁矢のシャツの腕は、うっすらと煙をのぼらせているではないか。
「――くっ」
 苦痛の声とともに、左の手で袖の火の粉を払って。しかしそこまでが、仁矢には限界だったのだろう。アスファルトの上に、彼は崩れるように膝をつく。
『お見事!』
 ひゅう! と、青の道化師が口笛を鳴らす。純粋な賞賛などでないのは、もちろん明らかだ。
 壇上の指揮者のように、《幻燈師》は片腕を振るった。
 白い手袋が撫でたその空間に、次なる幻が浮かび上がる。
 刃だ。刃渡り一メートルはあろうかという、異国風の曲刀。
 照明を受けて青く煌く切っ先が、向けられた先はむろん、地表に蹲(うずくま)る仁矢だ。
「――っ!!」
 させるか。させる――もんかっ!
 数歩の距離をひといきに跳躍し、つばさは仁矢に体当たりをくらわせた。
 無我夢中だ。やり方を考える暇なんてありはしない。
 ――ごめんっ!
 片腕で抱きかかえるようにして、仁矢の身体を地面に押し倒す。
 一瞬遅れて、つばさの背中のすぐ上を刀が通り抜けた。
 曲刀はきぃんっ! と音をたててアスファルトの上を弾み、そしてそのまま、忽然と宙に解け消えて見えなくなる。
 まさしく、うたかたの幻影。されど――つばさは確かに感じていた。身体を掠めた凶刃が、纏いつかせた風の気配を。
 幻などではない。幻などではありえない。
 ――何なのさ……これはっ!?
 意のままに空中に涌き出で、にもかかわらず実体としての攻撃力を有した幻。もしそんなものが《幻燈師》の『力』であるというのなら、もはやいかにして立ち向かっていいかもわからない。
 上に覆いかぶさって仁矢をの身体をかばったまま、つばさは歯噛みをして《幻燈師》の仮面を見上げる。
 刹那――
「え?――ぁ――あぁ!」
 喉から洩れ出でる声、つばさは抑えることができなかった。
 刃。
 刃。空中に。刃。
 刃。刃。眼前に。刃。刃。頭上に。刃。刃。刃――
 先程と同じ、曲刀が。もはや数えることも叶わない本数の刀が、宙に浮かび上がっている。自分たちを取り囲むように、鋭い切っ先を向けて。
 一斉に飛ばされたら、避けきれる数などでは決してない。
 つばさたちだけではなかった。駆けつけて仁矢とつばさを庇う位置に立った先輩ふたりも、同じように刃の包囲網に閉じ込められている。
『おやおや。そこを退いてはいただけないものですかな』
 嘲りの言葉とともに、《幻燈師》は肩を竦めた。
『こんなところで貴方がた全員を傷つけてしまうのは、私の本意ではないのですが』
「……どけ、駒形」
 不機嫌な声とともに、仁矢がつばさの半身を押しのける。
「先輩たちもだぜ。無茶してんじゃねえ、向こうで見てろよ」
「君が刺されるところをかい? そっちこそ無茶を言ってくれるなよ、仁矢くん」
 背を向けたまま、京一郎が答えた。飄々とした、けれども芯の通った口調で。
 隣の睦は、黙したまま。されど、横顔に浮かぶ毅然たる表情に、逃げるという選択肢はわずかたりとも見受けられはしなかった。
 つばさは――仁矢から身を離して、ゆっくりと立ち上がった。
 言葉に従って退いたわけでは、無論ない。怯えからくる身体の震えを、いまこの場では仁矢に悟られたくなかったからだ。
 そう。恐くないなどといったら、それこそ嘘になる。
 だけど――虚勢などではなく、その恐さに負ける気はぜんぜんしない。
 『力』とはまた違う不可思議な力が自分の奥底に凛と漲るのを、つばさは確かに感じていた。
 その力に押されるように、つばさはちょこっとだけ無理をして仁矢に笑みを向けてみる。
 ちっ……と舌打ちをして、仁矢が立ち上がった。
「馬鹿野郎が」
「お互い様」
 つばさは即座に言い返す。
 周囲を取り囲む、刃の群。圧倒的に追い込まれた状況は同じなはずなのに、ものの数秒で空気が変わっていた。
 もしかするとこれが、茜桟敷の奇術というものなのかもしれない。
『まったく――』
 《幻燈師》が、おもむろに口を開く。
『困りましたな、どうにもうまくことが運ばない。
 私も、そろそろ癇癪を起こしてみたくなってまいりましたよ』
 言葉とは裏腹に、あくまでも愉快げな作り声で。
『先程も申し上げましたが、貴方がたとの戦いは余技に過ぎません。わが一座の奇術師たちの楽しみを奪うは、無粋とは申せましょうが――ここで終止符を刻んでしまっても、何ら問題は生じはしないのですがね』
 飄々たる口調の奥に潜む脅しに、されど応じる者は誰もいなかった。
 沈黙が生じた。先ほどまでの、追い詰められた沈黙ではない。
 怪人対茜桟敷。拮抗が織り成す張り詰めた空気の中、双方の視線だけが激しくぶつかり合う。
 そのまま、しばしの時間が経過した。
 静止を破ったのは、《幻燈師》のほうだ。彼はゆっくりと片腕を掲げ、佇むつばさたちに指の先を向ける。
 それに呼応して。
 つばさたちを囲んで宙に浮かぶ、無数の直刀。そのうちの数本が、見えざる弓につがえられたように、微かに後方へと引き絞られた。
『……よろしい』
 凶々しい熱気と酷薄な冷気とが、《幻燈師》の声にこもる。
『試してみるも一興だ。刃に切り苛(さいな)まれる苦痛の中でどこまで意地を張ることができるか――ふふふ、しかと見届けさせていただきましょうか』
 邪なる悦びを宿したその宣告に、つばさたちが言葉を返すよりも早く――
 青き道化師の指は、ぱちんっ!……と静かな音を響かせた。
 刹那。
 ヴンッ!! という風切る唸りをあげて、数条の銀光が宙を貫く!
「――――!」
 悲鳴を声にする暇なぞ、むろんつばさにありはしない。
 刃が突き刺さる鈍い音が辺りに響き、そして。
 青一色に彩られた薄闇の中に、凶々しく真紅の華が散った。

(中編 03/2/29更新)
「あ――ああっ――」
 掠れた声をあげて、つばさは肩を震わせた。
 目を逸らしたくとも、それは叶わない。刃の餌食となった『彼』を、震えるまなざしで見つめるのみだ。
『ほう――』
 愉快げな。感心したような声が、《幻燈師》の仮面の口から洩れ出でる。
 ゆっくりと、彼は見下ろした。己が放った刃と、滲む紅の色を。
 そう。

 自分自身の身体に突き立った、直刀の群れを。

「……な……何さこれ……」
 つばさがようやく紡いだ呟きに、答えることができるものはいなかった。
 何が起こったというのか。つばさたちに襲いかかった刃の群れは一斉に軌道を変じ、放ち手たる《幻燈師》の身体を刺し貫いたのだ。
 青の道化師はしかし、驚いた様子は見せない。興味深げな雰囲気で、血の色に染まった己の胸を眺めている。
 そう。宙に浮かぶ彼の身体は、幻影に過ぎない。刃に刺されたところで、何処かに隠れている彼の本体は痛くも痒くもないのだろう。
 だが、ならば彼の道化服を染め上げる真紅の滴りは一体――
「――あ――」
 そこでつばさは、ようやく気がついた。
 《幻燈師》を染め上げる紅は、流れ出でる血などではない。そしてまた、紅の色に染めあがられているのは彼の身体のみではない。
 ライトが。先程まで、周囲を青一色に染めていた園内の照明灯が――ひとつ、またひとつとその色を転じていく。
 青から、赤へ。溶け落ちる落日さながらの、鮮やかな茜の色へ。
『……相変わらずでいらっしゃいますな』
 苦笑混じりの声で、《幻燈師》は呟く。
 彼の身体を貫く刀と、つばさたちを取り囲む刀。その刃の群れが、ふわりと宙に霞んで消えた。
『あの頃と何らお変わりない。《力》の手強さも、その《力》をたかが手駒を救うに浪費される甘さも』
「君も変わっていないようだね。喋りすぎて墓穴を掘る悪癖は、昔のままだ」
 涼やかな声が、《幻燈師》の言葉に応えた。
 長い静止と沈黙を破り――久遠 茜音はゆっくりと顔を上げる。《幻燈師》を見上げたまま、彼女はつばさたちの前へと歩み寄った。
「――茜音さん?」
 微かな声を洩らしたのは、京一郎だ。側らの睦もまた、不安げに眉をひそめる。
 彼らの憂慮のゆえは、つばさにも判った。
 久遠 茜音の相貌。端整なその面立ちは今、つばさがはじめて目にする疲労の翳りを帯びていた。もともと白い肌はさらに蒼褪め、わずかの血の気すらも感じられはしない。
 だがしかし、口元には変わらぬ凛然たる微笑を刻んで――
「いつだったか、君に忠告したことがあったね」
 男装の少女は、静かな声で《幻燈師》に語りかけた。
「奇術師同士の闘いに、安全な場所など存在しない。敵に刃を突きつける以上は、自分も相手の間合いにあることを自覚したまえと。
 先程からの言い草を聞く限り、僕の言葉を糧としてはくれなかったようだね。残念だよ」
 茜音の言葉に、道化師は答えない。彼は腕を組み、微かに首を傾げてみせる。
 白い陶磁の仮面。その仮面が象る笑いのごとく、彼の余裕は揺るぎなきもののように見えた。
 そう。かの怪人の身は未だ、奇術が織り成すヴェールの向こう側にあるのだ。茜音がいかなる力を奮おうとも、相手が幻ではいかんともしがたいではないか。
 されど――
 茜音はふっ……と息をつくと、あの悪戯っぽい笑みを空中の道化師に向けた。
 ポケットに指を差しいれ、一枚のカードを取り出だす。
 いまや周囲は、余すところなく色濃い朱に染まっている。その只中に佇み、茜音は静かに口を開いた。あたかも、パズルの最後の一片を嵌めこむように。

「松屋デパートの屋上から高見の見物とは――なかなかいい身分じゃないか」

『――――!』
 つばさは、はじめて目にした。青き衣の道化師が、息を呑んで凍りつくそのさまを。
 優雅な仕草で、茜音は真上にカードを弾いた。
 くるくると回りながら宙に舞った絵札は――地に落ちるより早く、幻のごとく茜色の闇に溶け消える。
 刹那――

 ――パンッ!!――

 破裂音。
 火薬が爆ぜたような鋭い音が、どこか遠くから微かに聞こえてきた。
「な、何? いまの――あああっ!!」
 問いかけるつばさの声は、途中で驚愕の叫びに転じる。
 《幻燈師》の姿が。宙に浮かぶ道化師の像が、信じがたい異変を生じていた。
 輪郭が歪み、揺れ、霞み……まるで壊れたテレビに映る画像のごとくに、ノイズを生じているのだ!
『く――!』
 発された苦しげな呻きの声も、どこか不鮮明で。
 わからない。何があったのか。茜音は、いったい何をしたというのか。
「あ、あの――」
 すぐ目の前にあった睦のブラウスの袖を、つばさはためらいがちにくいくいと引っ張った。
「その、ええと、な――なんなんですか? あれ――」
 しどろもどろの見本のような問いかけを、それでも睦は察してくれたらしい。少しばかり考え込むような表情を見せたあとで、彼女は側らの京一郎へとまなざしを巡らせる。
「……《転移》……かな。いまの」
「うん」
 京一郎は頷くと、つばさの目の前にぴっと人差し指を立ててみせた。マンガでよく見る、「解説しよう!」のポーズだ。
「《転移》っていうのは、俗な言い方をすれば物を空間移動させる奇術だよ。《力》を封入したカードを、離れたところでのうのうとしていたピエロさんに直接飛ばしてぶっつけたんだろうね――たぶん」
 先輩の言葉に、つばさは呆けた表情のまま頷いた。
 そういえば、《転移》という奇術についてはさっき地下で仁矢くんにも聞いた。若槻先輩の説明も、おぼろげながら飲みこめる。
 けれどもやっぱり、狐につままれたような気分は晴れない。
 目の前で繰り広げられている茜音と《幻燈師》の闘いは、つばさが捉えられるレベルを完全に超越していた。
『く――ふ……ふふ――ふふふふふっ』
 《幻燈師》の呻きは、次第にひそやかな笑いの声に転じていく。
 乱れちらつきながら、宙に浮かぶ青き影。哄笑の仮面は歪み、先程までよりもなおいっそう凶々しい印象を与えていた。
『不覚でしたな……今のは効きましたよ』
 三日月形の眼孔が、闇を湛えて茜音を見やる。
 茜音は面白くもなさげに溜息をつくと、己の指先に視線を落とした。
「外したか。僕の腕も少しばかり鈍ったらしいな」
『ご謙遜を――《結界》で身を包んでいなければ、今の一撃で跡形もなく消し飛んでいるところでした。
 流石ですな、茜音様。いかにして私の居所を?』
「見くびられたものだね。あれだけの時間をもらえれば、『力』の流れを辿って術者の位置を探るくらいは難しいことじゃないさ」
 つばさにはもはや理解のしようもない台詞を、茜音はこともなげに口にする。
「京一郎の言葉じゃないが、君には洞察力というものが足りないよ。
 もっと早く気付くべきだったんだ。何の裏もなく君の長口舌を静聴するほど、人のいい僕だとでも思っていたのかい?」
『……成程』
 心から納得したかのように、《幻燈師》はこくりと頭を垂れた。
 手袋を嵌めた手で、仮面の口元をおさえる。
『ふふ……ふふふ……』
 その指の狭間から、微かな笑いが洩れた。
『ふふ――フフ――フフフフフ!』
 笑いの声は徐々に大きくなり、真夜中の遊園地にこだまする。
 愉快でたまらない。可笑しさに堪えられない。まさにそんな様子で、道化師はしばし笑い続けた。発作的なその笑いにあわせて、彼の身体は波立ち、歪み、刻一刻と像の輪郭を失っていく。
『……いや全く、たまには臆せずに舞台に登ってみるものですな。かほどに心湧き立つ夜は、久方ぶりだ。
 これから先の貴方たちとの戦いが、俄然楽しみになってまいりましたよ』
 嘲弄でもなく、虚勢でもなく。純然たる昂揚を顕わにした声で、《幻燈師》は語りかける。
「生憎だが、君達にとってあまり楽しいことにはならないだろうさ」
 そっけなく肩を竦めて――それから茜音は、再び道化師の仮面を見上げる。
 瞬間、つばさは確かに目にしていた。
 名の通りの茜色を湛えた、少女の双眸。その奥に、射抜くがごとき鋭い光が閃くのを。
「あいつにも、伝えておいてくれたまえ。遠からぬうちに、必ず会いに行くと」
 まるで、恋人か旧友への言伝を頼むような言葉。だがその声に宿るのは、親愛でも懐慕でもなく。どこまでも冷ややかな……殺気とすら呼べる気配だった。
 むろんつばさには知りようがない。茜音が口にした『あいつ』が、いったい誰なのかなど。
『――承知いたしました。ふふ、あのお方もさぞかしお喜びになるでしょう』
 茜音が放った言葉の矛を、仮面の道化師はおどけた笑いをもって受け流す。ぶつかり合う両者の視線が、宙に見えざる火花を散らした。
 つばさたち四人は、口を噤んだまま目の前の対峙を見守るのみだ。
 謎に包まれた座長と、おそらくはその謎の一端を知る強大な奇術師。彼らの間に交わされる会話には、今の自分らに立ち入る隙はなかった。
『さて――』
 しばしの沈黙を挟んで、《幻燈師》は静かに口を開く。
『語るに気を取られて更なる醜態を晒したのでは、私も立つ瀬がなくなってしまいますな。名残惜しいが、今宵はここで退散させていただきましょうか。
 では、茜桟敷の諸君』
 仮面の相貌が、ゆっくりと五人の上を巡る。茜音から京一郎へ、睦、仁矢、そして――
 ――え?
 つばさは思わず、身をこわばらせる。
 緊張ゆえの錯覚だろうか。いや、そうではない。
 怪人のまなざしは、自分の上にぴたりと停まっていた。まるで、照準を絞るかのように。
 そのまま、動かない。
 ――な……何さっ!?
 怖気づくまいと、《幻燈師》を睨み返しながら。しかしつばさは、胸の奥に脈打つ惑乱を抑えることができなかった。
 なんだろう。白き仮面の双眸、その奥に潜む怪人の瞳がこれまでとは違う――どこか柔らかな光を湛えて自分を見つめているような気がしたのだ。
 だがしかし、それはほんの一瞬のこと。
 青の道化師は胸の前に手を添えると、恭しく頭を垂れた。つばさが舞台の上で行っているのと寸分違わぬ、退場の一礼。
『――いずれまた、黄昏ゆく街の何処かで――』
 《幻燈師》はそのまま身を屈めて、くるりと宙返りをした。
 一回、二回、三回。見えない鉄棒で旋回を行うかのように、一回りごとに速さを増しながら。
 ――フ――フフフ――フフフフフ――
 真夜中の花やしきに、笑いの声がこだまする。
 己の膝を抱いて回転する道化師の身体は、いまや宙に浮かぶ青い球体に見えた。腕も脚も頭も判別がつかなくなり、ふわりふわりと二、三度脈打ったかと思いきや、次の刹那――
 ボゥッ!
 一塊の蒼白い火球と転じ、華々しく宙に爆ぜる。
 炎が散ったその跡には、何も残らない。衣装の一片も白き仮面も忽然と消え失せ、ただ、
 ――フフ――フ――フフフフフ――!
 愉快げなあの笑いだけが、朗々と闇に轟いているばかりだった。

 
 しばらくの間、誰も口を開きはしなかった。
 まだそこに怪人の姿があるかのように、宙を見上げて。はりつめた表情もそのままに、つばさたちは立ち尽くす。
 微かな埃を舞い上げて、五月にしては冷たい宵風が足元を吹き抜けた。乾いた風の音の、その余韻に重ねるように――
 ぱんっ、と手のひらを打ち鳴らす音が、重い沈黙を破った。
 全員のまなざしが、その方向に向けられる。
 集まった視線の只中、肩の力を抜くように大きく息をつくと、
「やれやれ、やっと終わったねえ」
 京一郎は、口元に軽い笑みを刻んだ。
 場の雰囲気にはそぐわぬ飄々たる声に、仁矢がもの言いたげな視線を向ける。
「……先輩」
「わかっているさ、仁矢くん」
 京一郎は肩頬をぴくんと動かし、ウィンクと思しき表情を仁矢に向ける。
「終わったどころじゃなく、むしろ始まっただけだってことだろう?
 でもまあ、駒形さんは戻って来られたし解毒剤も手に入ったし、今夜のところは大団円だよ。そう思ってひと区切りつけようじゃないか」
「……そう、だよね」
 睦が、こくりと頷いて表情を緩めた。
「こうやって、ここに五人集まることができたんだもん。
 疲れて暗い顔してたらたらばちが当たっちゃうかな」
 まだわずかに疲労の翳りは見てとれるものの、蒼褪めていた睦の顔にはほんのりと血の気が戻っている。己の発した言葉を確かめるようにいまいちど頷くと、彼女は眼鏡の奥の瞳を穏やかに細めた。
 それを機に、辺りの空気の強張りはふわりと解けたようだった。仁矢はやれやれといった風に肩を竦めたが、溜息には微かな苦笑の気配が感じられる。
 沈黙が生じた。先程までとは違う、柔らかに澄んだ静けさが。
 ゆっくりと、こちらに近づいてくる靴音。
「ああ、茜音さん。すみませんねえ、色々とお手数をかけちゃって」
 振り返った京一郎が、軽い笑みとともに頭を下げた。
「全くだ」
 肩を竦めながら、茜音は一同の輪の中に加わる。
「いつもながら危うい真似をして肝を冷やさせてくれるな、君達は」
「ひやひやさせてくれちゃうのは、茜音さんもお互い様だと思うけどなあ……」
 反撃は、思わぬところから飛んだ。
 茜音がちらりと向けたまなざしを、睦はふんわりとした――おそらく他意はない笑みで受けとめる。
「いえ、だからこその茜音さんなんですけど」
「放っておいてくれたまえ」
 ささやかな対峙から、降りたのは茜音のほうだった。少しばかり拗ねたように口を噤むと、彼女はぷいと視線を逸らす。その表情から先程までの鋭利な殺気が消えていることに、つばさはホッとした。
 ちらりと睦の顔を見上げると、彼女は変わらず午後の陽だまりのような微笑を浮かべたままだ。実はとてつもなく手強いひとなのではないかと、何とはなしにつばさは思う。
「まあ、茜音さんの底意地の悪さは今晩だけでいくつでも例があげられるからねぇ」
 珍しく口を噤んだ茜音を見て、京一郎がここぞとばかりにたたみかける。
「駒形さんも早く慣れたほうがいいよ。茜音さんの『趣味』というものを理解しておかないと、ことあるごとに寿命が縮むことになるからね。そもそも――」
「……ずいぶんと元気が有り余っているじゃないか、京一郎」
 静かな声で、茜音は京一郎の弁舌に楔を打ち込む。
「余裕があるならひとつ頼みたいんだが――《幻燈師》のやつが先程まで隠れていたはずの松屋デパートの屋上、今から様子を見に行ってきてくれないか?」
 言いながら、京一郎の方にはまなざしすらも向けず。彼女は腕を伸ばし、カードを挟んだ指を京一郎の鼻先に突きつける。
「特別に、《転移》でもって送り届けてあげるよ。僕も疲れているから、うまく屋上に乗せてやれるかは自信がないがね」
「や、嫌ですねえ茜音さんっ、僕ぁもうしおしおです。元気なんて少しも余っちゃいませんってばっ」
「……いい加減にしとけよ先輩たち」
 これ以上はないくらいの深い溜息をついて、呟いたのは仁矢だった。
「無駄口叩いてんなら先に帰るぜ、俺は」
「ほら茜音さん、仁矢くんもああ言ってることですしっ。
 お話しなくっちゃいけないこととか調べなくっちゃいけないこととかもまぁ山ほどありますけど、とりあえずそれも明日になってからです。茜音さんだって今日はまだ、一仕事残っていらっしゃるでしょう? ほら」
 京一郎はこほんと咳払いをすると、つばさのほうに顔を向ける。つばさが先程から握り締めている硝子の瓶に。
「――――」
 つばさもまた、手の中の小瓶をまじまじと見つめる。
 解毒剤。数限りない危機を無我夢中で乗り越えて辿りついた、この夜の終着点。
「ど――どうやればいいの? これっ」
 つばさはずずずいっと、茜音に顔を近づける。知りたかった。知って、すぐにでも実行したかった。瓶の中に詰められた透明なこの液体で、千絵ちゃんを眠りから醒ますそのすべを。
「病院に忍び込んで、千絵ちゃんにこっそり飲ませてくればいいのかなっ。だったら、あたし今から――」
「落ち着きたまえ、つばさ君」
 茜音が苦笑を――どこか柔らかな苦笑を洩らす。
「解毒剤と呼んではいたが、それはいわゆる血清というものだよ。患者に飲ませるという用途はあまり一般的ではないな」
「だ、だってっ、でも、じゃあ」
「……こればかりは、僕に任せておいてくれるかい」
 いきりたつつばさの目の前に、茜音は静かに片手を差し出した。
「君が迂闊に侵入して見咎められでもしたら、苦労も水の泡だよ。
 千絵君といったな――君の友人は、必ず《蛇使い》の毒から救い出そう。僕は嘘つきだが、不思議と約定は違えぬ人間でね」
 茜音のまなざしが、つばさを見上げた。悪戯っぽい笑みとはうらはらに、夕空の色を宿した瞳に宿るのはどこまでも澄みわたった真摯な光。
 差し出された手の中に、そっと硝子の瓶を納める。茜音の華奢な指を、つばさはそのまま両の手で包み込んだ。
「――ぃ」
 お願い、と言ったつもりだったが、喉が震えて声が出てこなかった。
 茜音の指の温もりが、肌に伝わる。その刹那――千絵の命が救われることが、つばさの中で確信に変わった。
 胸の奥で何かがふわりと緩んで、胸の奥に何かがふわりと満ちる。
 ――あ――れ?
 頬をくすぐる温かな感触と、滲む視界。
 ああ、馬鹿。何でまた泣いちゃうのさあたしは。変だ。変。
 顔をあげると、皆が自分を見ていた。傷を負いながら、ずっと一緒にいてくれた仁矢くんと。初めて会ったのに、幾度も幾度も助けてくれた若槻センパイと、香春センパイと、茜音さんと。
 今度こそ、ありがとうの言葉を口にしようとして。けれどもやっぱり、喉のあたりが詰まって声にならない。
 ああ。なんでさっきからこうなんだろう。
 だいじなことほど、うまくはなせない。
「――ぅ――く、」
 せめて涙だけでも拭かなくっちゃと思ったが、考えてみたらハンカチはさっき仁矢くんの手に巻いてしまったのだった。
 やむなく手の甲で目を拭い、すんっ、と鼻をすすったその時、
「――つばさ君」
 茜音の声が、つばさの耳に届いた。
「無粋をして申し訳ないが、今宵最後の用件を果たさせてもらうよ」
「……え?」
 涙に濡れた目を、つばさはきょとんと見開く。
 用件?
「君は僕らに協力し、僕らは君が友人を救うことにささやかながら助力した。
 ――いまこの場をもってひとまず、共同戦線は目的を果たして解消するわけだ」
 ――あ――
 つばさは思わず、声ならぬ声をあげた。
 無我夢中にあるあまり、すっかり忘れ果てていたのだ。自分の茜桟敷への入団が、仮入団という形であったことなど。
 虚をつかれて呆然と立ち尽くすつばさを前に、茜音は静かな――厳かとすらいえる声で言葉を続ける。
「あらためて、ここに問おうと思う。
 僕達とともに、《東京大魔術計画》に抗して戦うか。市井の徒の一人として、これまで通り日常の中に身を置くか。
 君は、どちらを選ぶかね」
 茜色の瞳が、まっすぐにつばさを見据えている。
 夕方にも、《結界》の中で提示された問い。
 だが、今とあの時とは違う。わずかこの数時間のあいだに、つばさは多くを見て、多くを聞き、多くを知っていた。
 だからこそわかる。この問いの向こう側に足を踏み入れたなら今度こそ、もはや後戻りはできないことも。
「……《幻燈師》の『力』も、《蛇使い》の老人の最後も、君は見届けたはずだね。茜桟敷が今後相手取るのは、ああいう連中だ。戦いは、死との隣り合わせになる。
 夕刻にも口にしたことだが、どちらの道を選ぶかは君次第さ」
 そこでひとたび言葉を止めてから、茜音は思いだしたように付け加えた。
「ああ――誓ってもいいが、君の友人の命をかけひきの材料にしたりはしないよ。もしも君が茜桟敷に入らずとも、橘 千絵くんは間違いなく君のもとに帰そう」
 変わらぬ、静かな声。
 茜音の話運びには、誘いの手管というものがまるでなかった。茜桟敷に加わらない道を選んでも構わない。その台詞通り――むしろそのための材料を与えてくれているかのようだ。
 その気になればきっと、言うことをきかせるための手札はいくらでも持っているはずなのに。
 巧みさを廃した彼女の言葉。だからこそ、つばさは茜音の本気を感じる。手駒として手に入れようというのではなく。目の前の少女が、同朋としての駒形 つばさを求めていることが、ひしひしと伝わってくる。
 沈黙が生じた。
 茜音は、それ以上何も言おうとはしない。ほかの三人も、口を噤んでつばさを見つめるのみだ。
 この沈黙を破れるのはもう、つばさの答えのほかにはありえなかった。つばさが黙っている限り、茜桟敷の一同も何時間だって声を発しはしないだろう。
 つばさは、大きく息を吸い込んだ。
 見上げた先には、真夜中の空。
 茜桟敷のビルで地下室への扉を潜ってから、わずかに数時間。仁矢くんと隅田川の土手でぶつかったのだって、まだほんの昨日のことだ。
 信じられなかった。二日前までは自分が何も知らずに、日々を送っていたなんて。
 叔父さん。叔母さん。千絵ちゃん。学校。駒形座。浅草というこの街。
 たいせつなものたちの姿が、胸の奥に廻る。この夜に目にしたいくつもの場面と、かわるがわるに。
 ひとつとして取りこぼせはしない断片の数々がふんわりと溶けあい――ひとつの答えとなって像を結んだ。
 ふぅ――と、つばさは息をつく。
「茜音さん」
 全身全霊の力を込めて、少女の瞳を見つめる。
「ひとつだけ、いいかな」
 胸に抱く答えを、確かなものにするために。つばさは、茜音に問うておきたいことがあった。
「……何だい?」
「もしも――だよ。もしもあたしが、茜桟敷には入らないって言ったらさ。それでも《東京大魔術計画》の奇術師は、あたしのことだって狙ってくるんだよね。
 そうしたら……茜音さんたちは、あたしたちのことを助けてくれる?」
「何かと思えば、そんなことか」
 気分を害するでもなく、茜音は淡々と口を開いた。
「無論だよ。あまり見くびってくれるな。
 気恥ずかしい言い方になるが、この街を護るのが僕達茜桟敷の目的だ。その街の中には、君や君の周りの人間も含まれる。
 新たな奇術師が現れたとしても、君の平穏には指一本触れさせるつもりはないよ」
「そう――なんだ」
 もう一度、つばさは息をつく。
 これで、すべての迷いが胸の中で断ち切られた。
 自分が茜桟敷に加わらなくっても。戦いに身を投じなくっても、茜音さんは自分を守ってくれるという。それならば。
「決めた」
 茜音の顔を見据え、口元に微笑を刻んで。それからつばさは――静かに首を横に振った。

「やだよそんなの。あたし、入る。茜桟敷に」
 
 はりつめた静けさの中に響く、己の声。
 こちらを見上げた茜音の双眸(そうぼう)が、すうっ……細められる。夕闇の色をしたその瞳からまなざしをそらさぬままに、つばさは懸命に言葉を重ねた。
「奇術師のひとたちに狙われてて、茜音さんやセンパイたちや仁矢くんがどっかで戦ってくれてるなんて――そんなの知っちゃったら、ぽーっしてなんていられるわけないじゃんかっ」
 そう。
 戦いと、平穏な日常と。どちらかを選んでどちらかを捨てるとか、そんなんじゃないのだ。
 この夜が明けたらきっと、昨日までと変わらない朝が来る。叔父さんと叔母さんがいて、千絵ちゃんがいる、穏やかな時間が。
 けれども、つばさはもう、知っていた。
 そんな日々の中に自分が帰っていけるのは、この夜の戦いを経たからこそなのだと。
 《蛇使い》の老人が言っていたように、日常がかりそめの幻だなんて――そんなふうには思わない。決して。
 だからこそ。幻ではないからこそ。何よりも大切だからこそ。
 その中に在るために、自分のできる戦いを知って。そしらぬふりで背中を向けるなんて、できるはずがなかった。
 ひとたび言葉を噤んで、大きく息をつく。
 目の前の茜音は、黙したまま自分を見つめていた。この場のスポットライトがまだ自分にあてられたままであることを、つばさは感じとる。
「あ、あたし――」
 意を決して、つばさは口を開いた。いま喉の奥にある言葉は、すべて発しておかなくてはいけないような、そんな気がした。
「さっきも言ったけど、ほんとはまだ、ぜんぜんわかんないんだ」
「――――」
 茜音の眉がほんの微かに動いた。澄みわたるその瞳が、つばさの言葉の先を問う。
 胸の中の想いを懸命に押しいだすように、つばさは声を紡いだ。
「夕方に茜音さんに聞かれたこと。あたしの『力』を何に使うべきかとか、この街を守って戦うかどうかとかとか――」
 茜桟敷に入ることには、もう迷いはない。
 けれども、茜音が《結界》の中でつばさに投げかけた問いには、未だ答えは返せなかった。
 ――ひとりの奇術師として、《東京大魔術計画》を阻止するために戦う。それが自分の使命だ。《力》をもって生まれてきたのは、きっとそのためなのだ。
 そんなふうに誓えるのなら、カッコいいのだけれど。でも、そう言ってしまったらやっぱり、嘘になってしまう。
 戦いを経た、いまとなっても。ちいさな船で海の真ん中に浮かんだように、呆然としたままだ。
 ただ――
「まだわかんないけど、わかんないままじゃいやだし、そのっ……
 わ、わかるようになりたいから茜桟敷に入りたいなんてんじゃ、だめ、かな」
 しどろもどろに、しかし懸命に、つばさは声を重ねる。
 知りたいと、いまは思う。
 生まれた時からずっとあたしの中にあった、不可思議な『力』。
 この『力』がいかなるもので、それを持っている自分は、いったい何者なのか。
 その問いから逃げ続けるのはもう、嫌だった。
 どちらに船を動かしていいかは、まだわからなくても。舵だけは、自分の手の中に握れるようになりたかった。
 唇を結んで、つばさは茜音の瞳を見据える。
 世界中の音が絶えたような、短く長い沈黙。
 その沈黙を破って、茜音が静かに口を開いた。
「いいんだね、つばさ君。それが――君の答えか」
 低い声で紡がれた問いに、つばさはこくんと首を縦に振る。
 めちゃくちゃで、自分勝手で、筋も通っていないけれど。もう一回言いなおしてもまちがいなく、まったく同じ言葉を口にすることになるだろう。
「――宜しい」
 軽く息をついて、茜音が頷いた。
「ならば決まりだ。芳しい答えがもらえて、何よりだよ」
「へっ?」
 つばさは思わず、すっとんきょうの見本のような声をあげてしまった。
 決まり?
 決まりって、それは。
 こんなに、あっさりとなんて。
「言ったはずだよ。君自身の意志を問いたいとね。
 君が入団を望むなら、僕の答えなどはすでに決まっているさ」
 唖然たるつばさのまなざしに、茜音は笑みをもって応える。そう、昨日から今日までの間につばさが幾度も目にした――あの、悪戯っぽい微笑で。
「だ、だって、そんなっ」
「そんな、何だというんだい?」
「いいの? ほんとにいいの? あたしなんて」
 入団したい理由なんてこんなにあやふやで。戦いだってドジの連続でほんとにギリギリで。そもそも茜音さんの目の前ではまだ何一つやっていなくって。
 それなのに、なんだってそんなに簡単に――
「……つばさ君」
 呼びかけとともに、茜音は片手を自らの頬にあてた。
「さっき君は、僕の顔を叩いてくれたね。
 いささか痛かったよ。頬を張られるなど、これまでにない経験だ」
「あ――ご、ごめんっ」
 思わず顔を真っ赤にして、つばさは詫びる。だが茜音は唇に笑みを浮かべたまま、片目を軽く細めてみせる。
「……あの痛みが、僕が君を信頼する理由だよ」
「――――」
 茜音の台詞を受けとめて――さりとてどう言葉を返していいのかわからないまま、つばさはいっそう頬を熱くした。見つめる茜音が堪えかねたように、少しばかり意地悪げに吹きだした。
「まったく――どう転がしても面白いな君は。これから先が楽しみだ」
「あ、茜音さんっ!」
 肩をいからせ、つばさは半ば涙目で叫ぶ。抗議の声のつもりだったのになんだか情けなく掠れてしまい、つばさの頬はさらに一段階ヒートアップした。
 それを機に、場の空気がふわりと緩む。
 うつむくつばさの視線の先に、差し出された手があった。顔をあげるとそこには、香春 睦が穏やかな微笑を浮かべている。
「あらためて――よろしくね、駒形さん」
「あ――は、はいっ、よろしくおねがいしますっ!」
 まだ照れのはいった声で答えながら、つばさは睦の手を握る。その横から、今度は京一郎が手を伸ばした。
「よろしく、駒形さん。
 いやぁ、素直な後輩ができるというのはなによりだなあ」
 のほほんとした笑いとともに、つばさと握手を交わして。それから先輩は、斜め後ろにその笑みを巡らせた。
「君もそう思うだろう? 素直じゃない後輩であるところの仁矢くん」
 じろりと京一郎を睨み、しかし仁矢は憮然たる表情のまま黙りこくっている。
「ほうらやっぱり素直じゃない。君が視線を向けるべきは、僕ではなくて駒形さんのほうだろうさ。
 ほら、挨拶挨拶」
 京一郎は片腕を伸ばし、軽く仁矢の身体を引き寄せる。つばさの正面に立たされ、しかし相変わらず不機嫌そうに唇を引き結ぶ。
 けれどももう、さすがにそんなことでおっかなびっくりはしなかった。
「仁矢くん」
 しゃんと背筋を伸ばして、つばさは仁矢の目を見る。腰に手をあて、ひとつ大きく息を吸い込んで――
「後悔、しなかったよ。これからだって絶対にしてやんないんだからねっ」
 せいいっぱい威勢のいい声でそう言うと、言葉とともに自然と口元に笑みが浮かんだ。
「――――」
 仁矢は――なにか言葉を返しかけて、しかしやはりためらいがちに押し黙る。言葉を探すように唇だけが微妙に動く様子が、不機嫌というよりはなんだかきまりわるげだ。
 両側の睦と京一郎が、すこしばかり意味ありげに顔を見合わせて笑みを浮かべる。
 くすぐったいのを我慢しているような数秒の沈黙ののちに、仁矢はつばさのほうに手を差し出した。
 握手の手ではなく。最初から握った拳を、彼はそっけなく胸の高さに掲げる。
「……よろしくっ」
 つばさもまたげんこつを握ると、声とともに仁矢の拳に打ちあわせた。
 こん、という鈍いその音が――長いこの夜の終わりの合図のように、つばさの耳に届く。
「――さて」
 おもむろに、茜音が口を開いた。シャツのポケットに指をさし入れながら、彼女はつばさを見上げる。
「お開きの前に、これを渡しておかなくてはね。
 準備が無駄にならずに済んで何よりだよ」
「え?」
 きょとんとしたまなざしで、つばさは茜音の手元を見やる。
 何が出てくるというのだろう。そういえば茜音さんのこのポケット、さっきから何枚もカードを出したり解毒剤の瓶をしまったり、どういう仕組みになっているのだろうか。
 それこそ手品師そのものの優雅な仕草で、茜音がとり出したものは――
「――あ!」
 つばさにも、見覚えのある品だった。
 金色に光る、ちいさな円盤。
 そう、つばさも先ほど地下迷宮の中で手にした、茜桟敷特製の懐中時計だ。
「受け取りたまえ。わが一座の、団員章のようなものだ」
「え、ええと、いいの? そんな、もらっちゃって」
「良いも何も、君用にあつらえた品さ。使い方は、おいおい京一郎達から教わるといい」
「う――うんっ」
 つばさはごくりと唾を飲む。
 伸ばした指先が、微かに震えた。金色に光る時計の蓋が、見知らぬ世界へ通じる扉のノブのように思えてくる。
 今更ながらなのかもしれないけれど――ああ、茜桟敷の一員になるんだという実感が、胸に満ちた。
 昂揚と、不安と、期待と、怯えと、うしろめたさと、誇らしさと。それはまさに幼いころ、言いつけの門限を破って黄昏の町を歩んだときのあの感覚に似て。
 息を噤んで、つばさは懐中時計を手の中に収めた。ひんやりとした金属の感触が、肌に伝わる。冷たくって、それなのになぜだか熱い。
 懐中時計を握るつばさの手を、茜音の指が静かに撫でた。
「あ――」
 背中の産毛が波立つような感覚に、つばさが微かな声を洩らしたその瞬間――茜音は、つばさの手を柔らかく握り締める。
「夕刻にも口にした台詞だが……もう一度だけ繰り返させてもらおう」
 凛とした、されどどこか妖しげな笑みを唇に刻んで、男装の少女は声を紡いだ。
「駒形つばさ君――歓迎するよ、ようこそ茜桟敷へ」



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